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章雄は橋の上で寺の鐘を聴いた。午後五時だ。くるりと欄干に背を向けた。遅いなあと思いながら、橋の向こう岸を目を細めて眺めた。こっちへやって来る人影は少ない。仕事帰りの人々が渡って来る時刻にはまだ早い。待っているのは幸子という中学生の少女だった。いつもなら四時過ぎには帰って来るはずなのに。 数分後、やっと白いセーラー服におさげ髪の幸子の姿を確認した章雄は、少なからずショックを受けた。一人ではなかった。白いシャツに黒いズボンの男と連れ立って歩いていた。見慣れた中学の夏服。二人は次第に近づいて来た。いつもなら幸子に駆け寄って行く 章雄だった。が、今日ばかりは欄干にもたれたまま足もとを見つめていた。一時間以上も待ちながら、立ち去った方がいいかもしれないと思っていたのだ。目を上げた。二人はすぐそこに来ていた。笑いながら男との会話に夢中の幸子は章雄に気づかない。章雄は川の方を向いて欄干にもたれて下を覗き込んだ。気づかないで通り過ぎてくれるのを待った。橋の下に、長谷やんはもういなかった。 「アキちゃん」後ろで幸子の声がした。章雄は振り返り、驚いた風を装った。 「やあ、お帰り」言って章雄は相手の男を見た。 「こんにちは」男はにこやかに会釈した。 この町の者ではなかった。ごく普通の中学生。ひょろりとして、章雄より十センチは背が高い。思春期で急に延びたらしくズボンからくるぶしが出ている。ソックスの白さが眩しい。母親が手でゴシゴシ洗っている姿が目に浮かぶようだ。 「サチにもついにカレシができたか」章雄がからかうように言うと二人は恥じらって同時に下を向いた。否定しないところをみると図星だったのだ。 「サトル君っていうの。今度の花火、一緒に行くの」幸子が言った。 「ふーん。楽しみだな、サチの浴衣姿」 「アキちゃんも行くんでしょ。浴衣ね、学校の家庭科で縫ったのよ。朝顔の柄」 「えー、大丈夫かよ」 「アタシ、家庭科5だから。……で、アキちゃん、こんなことろで何してんの」 「トモダチを待ってるのさ」 「ふーん。ケンちゃん?」 「そう。アイツ遅いなあ。ちょっと駅まで行ってみるか。じゃあな」 章雄は作り笑いをして手を振りながら、そそくさと幸子たちがやって来た方向へ歩いて行った。 幸子を今度の日曜の花火大会に誘うつもりで待っていた章雄であった。が、夕闇の中をあてもなく歩きながら、全然がっかりしていない自分に驚かずにはいられなかった。それどころか、幸子が普通の男とつきあっていることが何だか嬉しかった。――これはどういうことだ。不良だった父親が、娘が不良と付き合うことを恐れるのはこんな感じなのか。いや違う。今のところ、ほっとしただけなのだ。何にほっとしたかというと、あの男ならサチに無理矢理関係をせまることがないだろうということにだ。 章雄自身、多くの女は性欲を満たす為の存在だ。相手だってそれを解っている。そういう意味ではお互い様というわけだ。その結果生まれたのが自分であった。そして幸子も……。 幸子のことを思うと章雄は、得体の知れない胸の高鳴りを覚えた。三歳年下のこの少女は特別な存在だった。二人は住まいが隣同士で、赤ん坊の頃から一緒に育った。兄妹のように。幸子も章雄と同じ、父親の知れない子どもであった。そして……、ああ、幸子の母親は幸子を抱いて入水自殺をしたのだ。幸子だけが助かった。その後、今の夫婦に引き取られて育った。章雄とは隣同士ではなくなったが、今もごく近所に住んでいた。幸子の両親は裕福ではないが、夫婦で工場に勤めている実直な人たちだった。幸子以外に子がなく、とても大事に育てられた。まったく幸子はこの町に似合わない。実母は町一番の美人だったらしいが、幸子は本当に美しいのだった。奇跡。幸子のことを思うたびに、ほんの少しばかり神の存在を信じてもいいような気になった。実際、章雄にとって幸子は自分の分身のように感じられた。同じ境遇に生まれた二人が、陰と陽、正と邪、善と悪、それぞれの道を選ばなければならぬ運命だとしたら、幸子にかわってすべての穢れを自分が引き受けようとさえ思うのだった。それはずっと幼い頃からの感覚だった。ときどき、世の中に何一つ愛すべきものがないと感じ、生きるのが面倒くさくなるようなとき幸子のことを思うと気が紛れた。社会にとって自分が無価値であり、自分にとっても社会が無価値であっても、幸子の影として邪悪なもの一切を引き受ける決意を新たにするとき、少しは生きる価値があるような気になった。 こんな普通ではない考えを持つのは、母親のマリ子のせいだった。酔っぱらいのたわ言であったが、マリ子は「お前は神の子だよ」と度々言った。ジンかウォッカをストレートで呑みながら。 「お前はユトリロやジュネと同じさ。神の子の資格があるのは父親のない子。キリストだってそうさ」 アルコール度の高い蒸留酒は学校の保健室や予防注射の匂いがした。マリ子がいうにはどこか外国の高級に酒らしい。「アタシは貧乏だけどね貧乏臭いのは大嫌いなんだよ」ともよく言った。 しかし母親は、どこからそんな考えを持って来たのだろう。ヨーロッパかぶれの文学青年の客でもいたのか。ユトリロなんて名前が出るところを見ると長谷やんあたりが怪しかった。 酔うほどにマリ子の虚言はエスカレートし、自分はマグダラのマリアの生まれ変わりだと付け加えた。さすがに聖母マリアの生まれ変わりと言わないところが奥ゆかしい。マグダラのマリアと誕生日が同じだとも言った。あろうことか章雄は十二月二十五日生まれなのだった。そのことがマリ子の妄想に拍車を掛けるらしい。馬鹿らしいと思いながらも、しつこく言われ続けると耳クソほどではあるがその気になるから恐ろしい。思春期になって章雄はジュネを読み、少なからず影響され、かなり頽廃的な思想を持つようになっていった。ジャン・ジュネの世界は、下層のその下にあるかもしれない美を期待させた。世界が裏返ったとき見える美。ネガフィルムに映った世界、気がつけば、誰かの言葉“世界の表面はウソで出来ている”の裏面にあるものを求めていた。当然、学校など面白いわけがない。同級生も教師も子どもっぽく思えた。 「長髪を認めろ」とかいう生徒会の優等生たちの理屈も章雄にしてみればくだらなかった。そもそも「認めろ」というのが気に入らなかった。管理してくださいと言っているのと同じではないか。ルールを変えて下さいというレベルだ。どうせなら個人の髪型などに学校が干渉しないという約束を取り付けないことには、流行が変るたびにルールを変えなければならないではないか。 章雄は長髪のため学校に入れてもらえなくなり中二の夏から学校には行っていなかった。別に反抗するつもりはなかった。だいたい床屋に行かないでいると髪はのびる。ごく自然の姿なのだ。 「自由には義務が付きものだ」が口癖の教師もいたが、章雄にいわせれば「自由には孤独が付きもの」なのだった。反抗期だとかワガママだとかグレているとか言われたが、本人としてはまったく素直に生きているつもりだった。何たって、世界の表面の方がウソで出来ているのだから。 (つづく) |
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