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「雪月物語」「化外」「闇の道」
ブログ紹介
自作の小説です。
「雪月物語」2009.8/29〜9/20
「化外/KEGAI」2009.10/6〜2010.2/21
「闇の道」2010.3/15〜

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「闇の道」(67)

2012/01/14 17:41
 秋風になびく嬌声。近くの小学校で運動会の練習をしている。
かつて幸子の家があったところには五階建ての公営住宅が建っていた。章雄は犯行現場であるそこへ、田中を連れて来ていた。二人は、団地の向かい、渋沢病院の建つ丘の斜面に腰掛けていた。
 田中がカメラを章雄に向けている。章雄が一人でしゃべる。
「花火大会の夜だった。母親に頼まれて風邪薬を買いに行った、その帰り道。ここを通りかかった。木造の平屋、二棟続きの長屋だ。長屋って解るか?」
 田中が無言で頷いた。
「玄関のカギが開いていた。窓には薄明かり。不用心だなと思った。花火大会の夜は大方の家は留守だからな。それで玄関の戸、引き戸だ。こうやってカラカラと開けた。すると、奥で人の気配がした。一歩玄関へ踏み込んだ。……おい、顔色が悪いぞ」章雄が話を止めて田中を見た。表情をこわばらせている。
「何を怖がっている」
「いいえ。続けて下さい」田中の喉仏が動いた。
「盗みはすれども非道はせず〜。ふふふ、冗談。一歩、中に入った瞬間、奥から人が跳び出して来て、肩にドンと突き当たった。こっちは尻餅、そいつは外へ。空き巣だな!と身をひねって、必死でそいつのズボンのスソをつかんだ。けれども残念、逃げられた。追いかけんと起き上がったとき、手にひんやりと触れたものがある。幸子のペンダントだった、十字架の。ははん、これを盗んだんたな、と思うと同時に、前方の黒い人影を追っかけた、一目散。全身黒ずくめ、こりゃあプロだとそんときは思った。男は橋の方へ逃げ、それから土手を河原へ下って橋の下に入った。あたりは真っ暗。ドジな事に、そこで見失っちまったという次第」
 田中はカメラを止めた。
「空き巣……ですか?」
「いや。幸子を殺した犯人だ」
 田中は狐につままれたような顔をした。
「おかしい。作り話はやめましょう。今さら無意味です」冷たい声だった。
「なんだその言い草は。犯罪者は信用出来ないってことか?……そんなに聴きたいのか。幸子がどんなふうに殺されたか。私に語らせたいのか。アンタは聴いたのかい、姉さんの最期の様子を。どうだった?面白く拝聴させていただいたか? ちぇっ、こっちはそれを聴きたくないから、誰にも聴かせたくないから、自分が殺したことにしたんだからな」
「信じられません」
「なら止めよう。アンタの映画製作はナシだ」
「ヒドイな」
「ひどくったって、真実だから仕様がない。……おいおい泣きそうな顔するな。……じゃあ気の毒だから、こうしよう。そんなに猟奇的場面が聴きたいのなら、本人を呼んで語ってもらおう」
「本人?イタコでも呼ぶんですか」
「バカだなあ。本当の犯人だよ」
「犯人なんかいるんですか。誰です?」田中はうたぐる目で章雄を睨んだ。
「今は言えない。近々三人で会見の場を設けよう。奴は酒に酔うと口が軽くなる性分らしいから楽しみだ。アンタは飲める?」
「酒は嫌いです」不機嫌な顔できっぱりと答えた。
 頭上に広がる雲一つない秋の空。トンビが舞っている。目の前の丘にそびえる白いビルが、かつての錆色の街を見下ろしていた。
――あの頃ここで見た空と、今ここで見る空と、空に変わりはないけれど、変わり果てたるこの世の中。……いや我が姿かな。
 そんな浪花節の一説を思い浮かべる章雄であった。
 
(つづく)
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「闇の道」(66)

2012/01/14 02:12
「あら、花が咲いている」緑が言った。緑は長谷やんの孫娘の美大生だ。章雄の画廊でスパゲティを作っていたところだ。
 その言葉に章雄が振りかえった。長谷川展のかたづけの最中だ。
 緑は、日当りの良いキッチンの窓辺に置いてある鉢植えの葉っぱを摘んでいる。
「ねえ、知ってる」緑が章雄に向かって言った。
「何を?」
「バジルの花言葉」
「はなことば?」章雄が聞き返した。
「バジルに花が咲いてるの」
「ふーん」
「バジルの花言葉って、憎しみなのよ。ニ・ク・シ・ミ」
「へぇ。誰かに送ろうってのかな?」
「送るより食べさせるほうが効果てきめん。お二人さんに。さあさあ、憎しみを、トマトとソースと一緒に、召し上がれ〜」緑はミュージカルのように節をつけた。その声はコンクリート打ちっぱなしの部屋に共鳴した。
「おうおう、味噌が腐るゾ」ケンが口を挟んだ。
 章雄は作業を途中にして緑の方へやって来た。植木鉢を覗き込んだ。薄紫の本当に小さい花がプチプチと咲いている。
「おかしいな、憎しみがこんなに小さくて可憐なワケがない。間違ってないかい。……花言葉が憎しみといえば、黒バラか黒百合だろ?」
「知恵袋で見たから確かよ」
 いわれて章雄は手を伸ばし、プチリと一茎ちぎり取る。顔に近づけじっと見て「頼りねぇなあ」と呟やいた。
 緑はフライパンから三つの皿にスパゲッティを盛り分けている。盛りつけ終わって、
「それ、ちぎってのせてね」章雄に言った。
「憎しみをくらわば皿までもか」一人ごちて、持っていたバジルをむしってそれぞれに皿に散らした。
 あの時咲いた憎しみの花。赤い血色で牡丹ほどの大輪だった。今も章雄の胸の中に咲き続けて、いるにはいるが、あんまり時が経ちすぎて、まるで生気を失っていた。造花のような憎しみよ。鮮やかに蘇るには、新しい憎しみの助けが必要だろうと、そう思って章雄は、あの田中という若者の助けを借りることにしたのだった。
 三月の震災と津波とが神の仕業であったならば、なぜアイツが生きているのだろうと章雄は思う。神などいないことの証しか、そうでなくば、人間同士の恨みつらみなどに神は関知しないということだろう。勝手にどうぞということなのだから、勝手にやるだけだった。結果、失う物は皆無ではないが、例えば緑の手作りのパスタ。例えば小さな幸子との時間。その程度。

(つづく)
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「闇の道」(65)

2012/01/13 23:12
 章雄は組んでいた脚を入れ替えた。
「誰に聞いた?」
「えっ」
「私が犯人だって。誰が言ったの?」
「この町の人です。事件当時から住んでいる」
「本当に犯人だって言ったかい。捕まったとは言ったかもしれないけどけど、犯人と言ったかなあ」
 田中の顔色が少し変った。
「人殺しがその現場の近くに戻って来て店を出すって、おかしいって思わない?」章雄が薄笑いながら畳み掛けた。
 田中の眉間にかすかなシワが寄っている。何か考えている様子だ。
「では、犯人ではないというのですか」田中がゆっくりと慎重に言葉を発した。
「だから、犯人って、誰がいったの?」
ケンがすっと腰を上げ、流しの方に歩いて行った。
「そういわれれば……」言いながら田中はぐるりと部屋の中を見回した。そして「ここは、事件現場の直ぐ近くですね」と呟いた。
 ケンがポットを手に戻って来て、三つのカップにコーヒーを注いだ。香ばしさが漂った。三人は黙って、それぞれのカップにミルクや砂糖を入れてスプーンでかき回した。
 まっ先に口に運んだのは章雄であった。一口飲んで言った。
「いいよ。協力するよ」
 ケンが目を丸くした。
「本当ですか」田中の表情が急に晴れやかになった。
「ふふん、協力ってか。おっかしいな。監督さん、よーく考えてみた方がいいなあ」ケンが言った。
「何をですか」
「もしも逆の立場だったら、アンタならどうする?絶対に断るんじゃないの?」上目使いに田中の顔を覗き込む。
「いいえ、そうは言いきれないと思います。もう長い時間が経っていますから、人間はきっと、心から悔いるということがあると……」言葉が濁った。
「……あると、そう、思いたいよな」章雄がにっこりして言った。

(つづく)
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「闇の道」(64)

2011/11/26 03:19
 しかし、いま死さえもリアリティを失っている。いいや、これまで一度だって、自身の中で死がリアリティを持ったことなどないことに章雄は愕然となる。幸子の死に顔さえ見ていない。あのとき、現実を受け入れられなかったのは意気地がなかったからなのだ。ああ、長谷やんの死、金さんの死、母親の死。そんな死は、人生の最終章に付く終止符。胡麻粒のような死だ。それらとは違う、例えるなら戦場のような死の実存。手触りのある死。与える死。この手で肋骨の下で蠢く心臓を掴み出してやることなのだ。
 だが如何せん、そこまで章雄の想像力は届かない。鮮やかな生と死のコントラストが描けない。どうすればいいのか。恨みや怒り、復讐心、正義まで持ち出してもまだ足りない。やはり……狂気であるか、必要なのは。あの男も……幸子を殺したのは狂気を味方につけたのか。でなければ、何で人殺しなどできよう。しかし、やらないわけにはいかない。でなければすべてが虚構になってしまう。人生も世界も。何もかもなかったと同じになってしまうのだ。
 そして長谷川展は終わった。ついに渋沢春彦は現れなかったが、まるで彼の替わりであるかのように、一人の背が低い目つきの鋭い若者が、一日おきに訪れていたのだった。グレーのジャケットにジーパン、黒いリュックを肩にかけていた。よほどのファンなのだろうと章雄たちは囁き合った。とくに幸子の肖像の前にいる時間が長かった。時々、章雄の方をチラチラと盗み見た。
「絵が欲しいんだろうな、おそらく」ケンは言った。
「長谷やんが欲しいのか、幸子が欲しいのか。どっちだ?」章雄がきいた。
「長谷やんだろ。絵描きの卵で憧れてるんだろ」
 最終日、一人だけ残ってなかなか帰らないその若者に章雄は声を掛けた。
「申し訳ない、もう終わりです。あなたのような熱心な人がいるととても嬉しいなあ。どうです、お茶でもいかがですか」
 若者は驚いた顔で章雄の目をジッと見つめた。それから足もとに視線を落とした。意を決したように再び顔を上げると、
「私は絵を見に来ていたんじゃないんです。私はアナタを見に来ていたんです」
「えっ」
 妙な雰囲気を感じ取ったか、奥でコーヒーを入れていたケンが二人の方へやって来た。章雄の斜め後ろに立った。
「へぇ、それはどういうこと?」章雄が力を抜いた声できいた。
 コーヒーメーカーがポコポコいっている。
 若者は田中と名乗って、パソコンで手作りしたらしい名刺を二人に差出すと自己紹介をはじめた。二十五歳で映画監督を目指しているという。礼儀正しく、べつに怪しい人物ではなさそうだった。そしてこういった。
「ドキュメンタリー映画を撮りたいんです。出ていただけませんか」
 コーヒーメーカーの音が止まった。コーヒーが入ったのだ。ケンが画廊のドアにカギをかけた。章雄は田中を応接スペースにうながした。二人が向かい合って腰を下ろした。
「どんなドキュメンタリーなの」章雄がきいた。
 田中はリュックから青いファイルを取り出した。それを開くとクリアポケットから新聞記事を貼付けたコピー用紙を抜き出して、章雄の方に向けてテーブルに置いた。
「これなんです」
 章雄が手に取った。ケンが二人の前にコーヒーカップを置いた。章雄の前に置きながら新聞記事を覗いた。ハッとした表情で章雄の横に座った。自分のコーヒーは後ろの棚に置いたままだ。
「ヒドい事件です。犯人は未成年でした。私は調べました。犯人は今どうしているんだろうと」田中の言葉はそこで止まった。唇を噛んでいる。
「うん。それで犯人はどうしていた?」章雄がやや身を乗り出した。
 田中は表情を歪めた。
 それは愛の告白のように、思いつめた物言いであった。
「犯人は、画廊をやっていました」
 言い終わると両手で顔を洗うような仕草で頬をこすった。まるで緊張でこわばった頬をほぐすか、あるいは血の気の引いた顔の血行をよくしようとするかのように。
 章雄とケンは顔を見合わせた。
「ふーん。アンタは何でこの事件に興味を持ったんだ。未成年が犯人の事件は他にもあるだろ。もっと新しいのが」ケンがいささか嫌味を込めて言った。
「あまり、いいたくはないのですが……私の姉が中学生のときに同じような目に合って死にました。犯人は成人で他にも事件を起こしていましたから死刑になりました。アナタは五年間少年院にいて社会に戻って来た。そして驚くべきことに画廊の店主となり、今、こうして被害者の肖像画を飾っている。……私には解らない。十七歳のときのアナタと、今ここにいるアナタは同じ人間ですか」
 潤んだ目でキッと章雄を睨んだ。
 章雄が思わず苦笑いをして腕組みをした。
「うーん。困ったなあ。どうしよう、ケン」
「確かに面倒くさいことになったなあ」ケンも腕組みして首を傾けた。
「迷惑だってことは百も承知です。私は正義漢ぶるつもりもありません。ただ真実が知りたいだけなんです。あのような獣じみた狂気の沙汰としか思えない犯行を犯した者、つまりアナタの生の声を聞きたい。……結婚はしていませんね。それは一つの救いでした。もしも可愛らしいお孫さんでもいたら、どうすればいいかと悩みました。よかった一人で。やはり、あれだけの罪を犯せば人を幸せになどできませんからね」
 田中は堰を切ったように早口で言いきった。息荒く、頬は紅潮し、膝頭が震えていた。章雄は、田中が、自分を恐れていることを感じとった。
 ――無理もない、俺が本当の犯人だとしたら、目の前の若造をタダじゃ置かないかもしれない。この若者は決死の覚悟だな。
「この人がいるにも関わらず、キミはかなり危ないことをしゃべっちゃった。それはつまり、この人のことも調べがついているってことでいい?」章雄がきいた。この人とはケンのことである。
「はい、知っています」
 言われてまた二人は顔を見合わせた。

(つづく)
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「闇の道」(63)

2011/10/23 02:13
 女とはおしゃべりなものだ。母親のマリ子もそうだった。腕力がない分、口が器用に出来ているのだろう。そんなことを脳の片側で思いながら凞子の話を聞いていた章雄であった。残り半分の脳は、三十年前の酒場の記憶をたどっていた。目の前の五十がらみの女が働いていたことがあるというF郷駅前のレディースコンパ。あの時、渋沢春彦と会った店だ。ありありと昨日のことのように蘇る、あの壁に飾ってあった絵。凞子は自分の源氏名を“かおり”と言った。あの時の娘は奈々……。
「奈々って子、覚えてませんか」章雄がきいた。
「ああ、いたいた。あの子、高校生で学校にバレたら退学だって言ってたわねえ」
 章雄とケン、凞子と祥子の四人は画廊の一階奥のソファに腰掛けてテーブルを囲んでいた。その日の長谷川展が終わった時刻であった。サイフォンで入れたコーヒーとチーズケーキ。さっきからしゃべり続けているのはもっぱら凞子であった。祥子はそんな母親を監視するような目で見ながらケーキを口に運び、時々章雄にブログに書いた「困った母親」に共感を求めるような眼差しを送って来た。たまに相槌を打つ章雄はケンの強い視線を感じていた。
「あの店に大きな壁画みたいな絵、ありましたよね」章雄がいった。
「ああ、あの気味悪い」凞子が即答した。
「ははは…」ケンがのけぞって笑った。
「気味が悪いとはキビシいなあ」章雄が言った。
「だって覗き見の視点なんですもの。フェルメールもそんな雰囲気あるけど、あの店にあったのはヘタクソな上にそうだから。まあ、描いたのが変態だから仕様がないけど」
「渋沢春彦は変態ですか」章雄がきいた。
「そう。よくご存知ね。気持ち悪かったぁ。レイプしたことがあるとか、自慢げに言うんだもの。この人、絶対おかしいと思ってた」
「お母さん、人違いだってば」祥子があきれたように言った。
「人違いじゃないみたいですよ」章雄が祥子に真顔で言った。祥子は驚いて目を見開いた。
「私も三十年前にその店で渋沢春彦に会いましたから。今、国会議員になっているあの渋沢春彦です。格子柄のハンチングをかぶっていた。当時はO省に勤めていたはずです。あの絵が気になったから、さっき言った奈々っていう子に訊ねたら作者を教えてくれてね。お母さんの言っていることは間違いない。その……レイプの話は本人にきいてみなきゃわかりませんがね。じつはねぇ、長谷川の絵、私の母親の肖像なんですが、あれ、渋沢病院から借りたものなんですよ」
 祥子の見開いた瞳が異様な光を発した。……ように章雄は感じた。  ――短世や大川端の人殺し。この娘は、何か感づいたかな。
「渋沢病院?へぇー、病院の息子だったんだ。まあどうでもいいけど。でも、あんなのが長谷川トシノリのファンとは……何だかヤダなあ」凞子が言った。
 ――この、半世紀以上も人間をやっているオバさんは奇妙な人だ。
 章雄の脳の半分が呟いた。――ウルフの過去を知っている……ってことはオレの素性も薄々感づいているのだろうか。それとも、天然?
「永井荷風がお好きなんですか」凞子がコーヒーを一口飲んでから唐突に言った。
「永井荷風?いいえ」
「ブログに荷風の俳句を書いてらしたとか」
「ああ、あれ。俳句に興味がありましてね。芥川と荷風の俳句は面白いですね。それと漱石も」
「そうですか。この子なんて荷風どころか、太宰も三島も知らないんだから、あきれちゃいますよ。まあ今どきはケータイやゲームや、娯楽がいっぱいありますからねぇ。私たちの時代は本と映画くらいしかなかった」凞子がいうと祥子が言い返した。
「小説なんてどうせ作り話だし。読む方だって、結局他人の生活を覗き見したいだけでしょ。作り話を覗くのは高尚で、芸能人の私生活を覗き見するのは低俗って、おかしいでしょ」
「なるほど。祥子さんは頭いいなあ」ケンが膝を叩いて共感の声を発した。
「オレもオトナになってからは小説って読む気がしないんだなあ。読んだだけで“生きた”気になるからさ。良くないよねぇアレは。読書感想文なんて本当はおかしいんだよ。鳴り物入りでチャンチャラおかしい。“ゴンは可哀想です”なーんてさあ、架空のものに感情移入なんかしちゃあいけないよ」
「そうそう、モテない奴ほど恋愛小説とか好きだから」祥子は瞳を輝かせてケンの方に身を乗り出した。
 更けゆく秋の夜。秋の夜長。
――本屋の金さんに聞かせたい会話だな。子どもの頃、オレたち二人は随分と作り話を読んだじゃないか。高畠華宵の挿絵に血わき、肉躍らせたオレたちだったじゃないか。……だけどなあ、思えばオイラも、ずっと現実を生きては来なかった。幸子を失ってからずっと。まるで世界がリアリティを失った。すべてがどうでもいいことになっていた。心の底から笑いもしなければ怒りもしなかった。今、この時だってそうだ。それにひきかえ、この母娘はしっかりと肉体を感じさせる。オイラとは別の世界に生きているのだ。金さんから貰ったあの短刀でアイツの胸を一突きすれば、再びリアルを取り戻すことができるのだろうか。止まったままの時計が再び時を刻み出すのだろうか。何十年も止まったままの古時計。錆び付いたゼンマイの潤滑油はアイツの血……。

(つづく)
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「闇の道」(62)

2011/07/29 02:45
 四十年の歳月が人間の肉体を変容させないなら、この世を憂き世とは呼ばぬものを。……と、嘆くのは美男美女であって、三遊亭K馬そっくりの、歯の発祥が残念なこの男、顔の造作はほとんど四十年前と一緒で、ただよくよく見れば表面の皮膚が細かいシワに覆われて萎びたようになっているだけであった。頭こそすっかり禿げていたが、章雄の記憶にある正一は坊主頭。今と大して変わりはない。いや、しかし。この男から祥子のような綺麗な娘が生まれるとは、狐につままれたような心持ち。母親にはよく似ているが、もしやと章雄は考えた。そうだ実の娘とは限らない。
「お父さん、何でここにいるの」祥子が眉をひそめ、問いつめる口調で言った。
「いや……、ちょっと興味があって」と正一。
「知合いだったの?」凞子が章雄と正一の顔をかわるがわる見た。何か胡散臭いぞという顔つきだ。
「そう、ずっと若いとき」正一がまごつきながら言った。
「そうだなあ、おっそろしく若いときだ」
 章雄の頭の中に「ウルフ」という名がどっかとあぐらをかいていた。しかしそれを口にしてはいけないと思う。妻と娘は「あの事」を知っているのだろうか。革命だか何だか知らぬが人を殺してしまった男。十七歳のテロリスト。爆弾魔。それがこんな形で再び目の前に現れるとは。
「参ったな。びっくり下谷の広徳寺。募る話は後のお楽しみにして、まずはハセガワの絵を見て下さい」言って章雄は母と娘に微笑んだ。
「そうね、行こう」凞子は何かを察したかのように祥子の腕をとると、男二人に背を向けて離れて行った。
「ウルフ、お前を何と呼べばいい?」章雄が正一の耳元に囁いた。
「ウルフでいいさ。正一っていうんだが、ウルフでいいよ」
正一は囁き声ではなく答えた。章雄はじっと正一の顔を見つめた。
「何だかなあ……眩しい」章雄が目を細めた。
「照明が明るすぎんじゃないか」正一が天井の蛍光灯を見た。
「相変わらずだな。まあいいさ。お前、幸せそうじゃないか、眩しいほどに」
「ふふふ、美人だろ俺の娘」
「うん。血がつながっているのか」
「何をいいやがる。俺そっくりじゃねぇか」
「うーん、鼻が顔の真ん中にあるところはそっくりかもな。……それより、俺がここにいることを知って来たのか」
「女房と娘が晩飯のときお前の話をしていた。聞くともなく聞いていた俺はビックリしたよ」そこまで言って正一は周囲を見回し、声を低くして続けた。
「四十年前の殺人事件とはなあ。ゾクゾクしたぜ。ビールを飲んでいたがすっかり酔いが醒めた。どういう因縁なのか。こりゃあ神も仏もあるのだと思った。敵討ちなら助太刀するぜ」
「何を言うかと思えば、お前、頭は大丈夫か」
「とぼけるなよ。俺はお前から聞いた話、サチコという娘のことをよーく覚えているぞ。こう見えたって、俺もネットくらいするさ。
何度と聞かされた、犯人の足にしがみついたときのこと。テレビン油の臭い。ちぎれた十字架の首飾り。わかったんだろ犯人?」
「どうしてそう思う?」
「勘だ。女房が渋沢春彦って議員がどうこう言っていた。それも飯を食いながら聞くともなく聞いていた。その名前に聞き覚えがあった。たしかお前の口から聞いた。シャバにいる友だちがその医者の息子が犯人じゃないかと怪しんでいると言っていたよな。それでさっそくネットで調べたよ。そうしたら、出て来た」
「何が?」
「女の美術評論家。お前も見たはずだ」
 章雄は深く息を吸って、そして吐いた。
「あのなあ。俺とお前は四十年ぶりに再会したんだぜ。そんな話は止めよう。俺は嬉しいんだよ。お前があんな美しい人の父親になっていて。今日は、不吉な過去は忘れてみんなで飯でも食いに行こうよ」
「だめだ、だめ。女房は俺の過去を知っているが娘は知らない。娘には知られたくないんだ。今度、日をあらためて二人だけで会おう。今日は俺の方が帰る。あいつら二人と楽しくやってくれ」
 章雄と正一は携帯の番号を交換した。正一が足早に凞子と祥子のところに行き何やら話した。そして手を振りながら二人のそばを離れた。章雄のところへ戻って来ると「じゃあ、また連絡するから」と帰って行った。

(つづく)
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「闇の道」(61)

2011/06/24 03:30
 母と娘らしき二人連れが入って来た時、章雄はピンときた。ブログの友、サチコとその面白い母親であると。キョロキョロしている二人に章雄の方からツカツカと歩み寄った。
「失礼ですが、サチコさんではありませんか?」章雄は満面の笑みを浮かべてそう聞いた。
「そうです。ああ、はじめまして。あの……母です」祥子の方もすぐに章雄だとわかったようだ。「ようこそお越し下さいました。お嬢さんのブロクでお噂は予々……」章雄が頭を下げた。
「はじめまして。サチコの母です」言って凞子が右手を差出した。 章雄はちょいっと面食らったが、その手を軽く握った。顔を見れば、若かりし頃はなかなかの美人だったに違いない。サチコもそうであるが目がパッチリと大きく、強い光を湛えている。この人があの店で働いていたことがあるとは。そして昔の渋沢春彦を知っているとは。章雄は胸に何かが込み上げて来るのを感じた。
 会場の様子は壁面に飾ってある絵一枚に二三人という入りである。
「どうぞ、ごゆっくりご覧になってください。といってもたいした数じゃありませんから、見終わったら奥でお茶でもご一緒に」章雄がいった。
 母と娘は章雄の側を離れて一番そばに飾ってあるの絵に向かった。渋沢病院から借りて来た例の一枚であった。その前で母と娘が盛んに囁き合っている。背後から見ていた章雄が歩み寄って凞子の横に立った。
「どうです。お母さんは長谷川のファンだとうかがっていますが」章雄が言った。
「あのぉ、ブログで言っていた亡くなられたお知り合いの女の子って、もしかしたらこの子じゃないかなって話していたんですよ」祥子が言った。
「ああ、違います。この女の人は私のオフクロです」
「まあ、そうなんですか。いえね、娘から、花火大会の夜に亡くなったときいていたものですから」凞子が言った。
「そうなんです。偶然なんですよ、この絵のバックに花火が上がっているのは。それと、亡くなった……いや、殺された子はサチコっていうんです。シアワセの方のサチコですがね。これはマリ子」言ってプレートを指さした。“マリ子”と書いてある。
「隣がサチコの肖像です。両方ともオサゲですしね。まあ昔の女の子はオサゲが多かった」
「そうそう、女子中学生といえばオサゲ。ロングは結ぶか編むかしないと先生がうるさかったのよ、ね」凞子が馴れ馴れしく章雄に同意を求めた。三人は横歩きに歩いて、隣の4号ほどの小品の前に移動した。絵の下のプレートに「幸子」というタイトルが入っている。長谷やんが幸子をモデルに描き、幸子の部屋に飾られていたものだ。ふだんは画廊の三階、章雄のアトリエに置かれている。事件の現場にあって、いわば事の一部始終を見ていた絵の中の幸子。この少女に犯人を教えてくれと、幾度となく懇願した章雄であった。しかし超然と微笑むだけの絵の中の幸子であった。三人はしばしその絵をジッと見つめていた。
「犯人、捕まったんですか」唐突に凞子が聞いた。
「いいえ」章雄が答えた。
「ひどい話ね」
 隣の絵に移った。橋の絵だ。
「ここへ来る時、渡って来たでしょ。あれが昔はこんな木の橋だった。その下が長谷やんの別荘でね。いっつも酔っぱらってた。ウィスキーをラッパ飲み」章雄がビンを傾ける仕草をした。
「丹下段平みたい」凞子が言った。章雄が思わず笑った。
「誰それ。まあどうせ昭和の登場人物なんだろうけど」祥子がいった。
 それからまた隣の絵へ……行こうと思ったら、そこに男が一人立っている。グレーのスーツを着た六十がらみの禿げ上がった男。腕組みをしてジッと見入っている。邪魔だなあという目で祥子が男を見てビックリ!
「お父さん!」と、思わず高い声。
「あら、まあ」凞子も驚いた。
 男は二人を見て「やあ」とこれもまたビックリ顔。それを見ていた章雄、じつはもっと驚いていた。正一が章雄と顔を合わせた。
「やあ、久しぶりだなあ」言ったのは正一。
「やっぱり……そうなのか? いやあ、信じられん。お前が……」と言いかけて言葉を飲込んだ章雄であった。
 奇遇といえば奇遇だが、打つ続く偶然をつなぐ一筋の糸は長谷やんの絵なのであった。神も仏も超能力も信じない章雄であったが、今度ばかりは目に見えない不思議な縁を感じずにはいられなかった。すっかりジジィになってはいるが、正一こそ、誰あろう。あの男であった。

(つづく)
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「闇の道」(60)

2011/06/22 03:16
 北へ北へと飛ぶ赤とんぼ。今や東京では滅多にお目にかかることがない。つくつくぼうしの「スイッチオン、スイッチオン」という啼き声に急かされて、教科書を橋の上から川へ捨ててそれっきり、学校へ行くことを止めたのも、ちょうどこんな雲一つない秋の日。などと気障なことを思いながら凞子は、祥子と一緒に、長谷川トシノリ展を見ようと画廊がある最寄りの駅へ降り立った。土曜日の昼下がりである。
 駅は高架の上にある。たしか南口、とエントランスを歩み往けば石畳の駅前広場に出た。右手を見ればギター弾き。左手を見れば白い幟が数本立っていて、詰め襟のスーツを来た若者がマイクを手に威勢良く演説している。側で、通行人にチラシを配っている年寄りの男女が二人。受け取る者はない。ギター弾きの前には人垣が出来ているが演説の方は立ち止まって聴き入る者がない。何気なく詰め襟の男の顔を見て凞子は「あっ」と声を上げ立ち止まった。祥子も「何?」と足を止めた。
「あれ、カズちゃんのお兄ちゃんじゃない?」
 凞子が言って二人は、演説男の方に二歩三歩と近づいていった。
「あ、そうだ。へぇーっ、こんなことやってるんだ」
 カズちゃんというのは祥子の中学時代の同級生。近所に住んでいて祥子と同じ二十四歳。男はその兄で三十前後か。カズちゃんこと田中数子は五人兄妹の四番目。目の前の男はたしか長男のはず。二人はじっと男を注視。幟には“教育勅語復活!”と書いてある。演説内容もどうやらそういうことらしい。
「教育なんとかって、何?」祥子が聞いた。
「教育勅語。よく知らないけど、たしか……親孝行をしろとか友だちを大切にしようじゃなかったかなぁ」
「へぇー、ありえないし。アイツ、すっげー親不孝だし。友だちから金借りて返さないらしいし。カズちゃんだって小遣い持ち逃げされたりしてすごい迷惑したんだから」祥子が凞子の耳元に囁く。
「覚えてる覚えてる。いろいろやったよねぇ。パンツ泥棒して捕まって、それが男もののパンツで、変態だって噂が立ったけど、真相は、兄弟が多くて新しいパンツを買ってもらえなかったからというオチ」
 男は相変わらず元気一杯にしゃべっている。凞子がもう三歩進んで真ん前に立った。男が凞子の顔を見た。凞子がニッコリして肩のあたりで手を振った。男の声が急にトーンダウンした。しどろもどろとなった。咳払いをしてごまかした。後ろにいる祥子の姿も目に入ったらしい。切りのいいところで男は話をやめた。後ろの黒いトランクの上にマイクを置いて凞子たちの方へやって来た。
「おひさしぶりです」バツが悪そうに男が挨拶した。
「田中くん、何やってんの。お母さん捜してたよ」凞子がかなり大きな声でいうと男はきまり悪そうにまわりを見回し、唇に人指し指を立てた。
「連絡してあげなきゃダメじゃない」
「はい」さっきまでの元気はどこへやら、蚊の鳴くような声だ。
 胸ポケットで日の丸のバッジが秋の日に光っている。
 背後から祥子が凞子の腕をひっぱった。
「じゃあ元気で。お母さんによろしく伝えとくから」凞子がいうと、
「ちょっ、困るなあ、おばさん。このことはオフクロに内緒なんで。
頼みます」と両手を合わせた。
「わかった、わかった。でもあんたが教育勅語を復活させようとかいうと詐欺だからね」
「そんなぁ」
「お母さん、行こうよ」祥子がグイグイと腕を引っ張った。凞子は逆らわずに男に背を向けた。
「関係ないことに首突っ込まないでよ」祥子が怒った声で言った。
「だって、あの子が教育勅語って。ちゃんちゃらオカシイし」
「上の人に言われた通りやっているだけでしょ」
「そりゃあそうだろうけど」
「だいたいさー、親孝行をしろって説教する人って絶対自分が親不孝だから。暴走族とかヤーさんとか。お前が言うなって人ばっか。親孝行って言葉自体、時代劇ワードでしょ」
「ふーん、そういえばそうかもねぇ。大天狗も自分が大泥棒のくせに、忠治に堅気になれ、親孝行をするんだぞと説教したし。でも結局忠治はヤクザになって大天狗はその仲間になった。連綿と続く親不孝連鎖ってやつか……」
 話しながら歩いているうちに二人は橋のたもとへやって来ていた。
「たしかこの橋を渡るとすぐよ」祥子がパンフレットの地図を見ながら言った。
「ブログのオッサンと逢えるの楽しみでしょ」凞子が言った。
「まあね。……お母さん、変なこと絶対いわないでよ」祥子が語気強く釘を刺した。

(つづく)
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「闇の道」(59)

2011/06/21 01:18
「ああうっとうしい」とついに章雄は上半身裸になってしまった。
 月光に照らされて、肩から胸に還暦過ぎたとは思えない筋肉の盛り上がり。それを見てケンが思わず立ち止まり、
「アキの身体、ジジィにしては若作りだな」
「そりゃあ鍛えているからさ。毎朝十キロのロードワーク」
「ええっ、知らなかった。あしたのジョーみたいじゃないか」
 章雄も一旦止まったが、スタスタと大股で歩く。ケンは遅れまいと小走り。
「腹筋背筋腕立て毎日五十回。三階には鉄アレイもある」脱いだワイシャツと上着を腰に結わえている。
「ジョーというより伊達邦彦だな。そういえば最近煙草も吸っていないよな」ケンがアキの顔を覗き覗き言った。
「止めた」前を向いたままだ。
「おいおい、まさか部屋に血圧計や体脂肪計があるなんていわないでくれよ。たしかにさぁ、夭折のチャンスを逃しちまった俺たちだけど、長生きを目指すってのもみっともなくねぇか?」
「お前はいいさ。人生をきっちり生きた。可愛い孫までいる。いつ死んだって思い残すことはないだろ。でも俺はまだなんだ。何もやり遂げていない」
「やり遂げる?」ケンが聞くと章雄の方がピタリと歩みを止めた。
 章雄はしばし黙って月を見上げていたがケンに向き直ると言った。
「そう、俺、絵を描いているだろ。二科展ぐらい通りたいんだ。身体を鍛えないと集中力が落ちる。本当に歳はとりたくないもんよ」
 
 その夜はなかなか寝付けない章雄であった。その日の出来事をいろいろと思い返さずにはいられない。渋沢琢磨は弟春彦をあまりよく思っていないように感じたが、自分の気のせいなのだろうか。ケンは俺の態度から何か感づいたりはしなかっただろうか。
 仇討ちについて、あるクリスチャンの若者はこう言ったっけ。
「犯人は地獄へ落ちる。裁きは神に任せればいい」
 サトルというその若者は幸子のカレシだった。今頃アイツはどうしているんだろう。しかし、地獄だとか神だとか、あるかないかもあやふやなものに頼ってどうするのだ。サチの仇は俺がとる。そう決めている、ずっとずっとずうっと昔から。
 章雄は思い立ってタンスの引き出しから風呂敷に包まれた細長いものを出した。紫の縮緬の風呂敷をほどくと白木の鞘に入った短刀が現れた。柄を含めて三十センチほど。義理の親父である本屋の金さんから貰った、形見であった。金さんが患って、もう長くはない自分の命を悟ったとき章雄をそばに呼んで言った。
「これはな、神器。よく研いで錆びさせるなよ。俺は昔コレで人を殺したことがある。愚連隊に襲われてな。相手はピストルを持っていた。俺は懐中からコレを取り出した。抜けば珠散る氷の刃。……ちょいと短いが、心臓をブスッ」
 芝居がかって金さんは、短刀の刃を水平にして突き出してみせた。まるで肋骨の間をぬって心臓を貫くかのように。
 鞘から抜くと短刀は鈍色の光を放った。刀(かたな)ではない諸刃、先端が三角に尖った反りのない劔(つるぎ)である。武器にしては刃が薄く弾力性がある。何かの職人が使っていた道具のようにも見える。
 金さんは章雄の腕をつかんで身体を引き寄せると耳元で囁いたのだっけ。
「だけど俺は捕まらなかった。死んだ男はどうせろくでなしだったからな。……いや違う。この神器のおかげよ。これで刺した傷は他の刃物と違うんだ。これでやったと一目でわかる。そうすりゃあなあ、事件はお宮入りとなる。俺にこれをくれたとっつぁん、赤の他人だが、その人が言った。その人も戦前に、身に降る火の粉と、悪党を一人刺し殺したことがあるらしいが、コレでやったとわかると警察の上の方で捜査にストップが掛かったらしいのだ。どうだい、すごいだろ、え?」金さんは鞘へ納めて章雄に渡しながら
「元々は長かった剣を短く作り替えたらしい。その元の刀がおっそろしく由緒があって古いもんらしいんだな。天皇家と同じくらい古い。そうして何かの密約があって警察は手を出せないということらしい」
 まあだいたいこんな風なことを言って金さんは黄泉路へ旅立っていった。章雄はつくづく思わずにいられない。金さんといい長谷やんといい、母親のマリ子といい、自分のまわりにはどうしてこうもイカれた奴ばっかりなのだろう。みんなこの世にいなくなったが、本当にいたんだろうかあの人たちはと、奇妙な非現実感に囚われることがある。
 金さんには戸籍がなかった。それを知ったのは死んじまったあと。 金さんは「先祖は旅人だ」と言ったっけ。「タビニン?」と章雄が聞き返すと「知らねぇのかよ、大天狗や沓掛時次郎。あるいはバガボンド」そう言って笑った。ベッドの枕辺に置いてあるラジオから微かにボブ・ディランの“風にふかれて”が聴こえていた。
 背後で「人を恨むのは心がねじけているんだ」という声がした。びくりとして振り返れば、テレビでサスペンスドラマの再放送をしている。主役の刑事のセリフだった。
 心がねじけているか……。恨みは恨みでもそれは「逆恨み」の方だろう。人が恨むことをやめたら強い者ばっかりが得をする。キリスト教も仏教も人殺しを奨励しちゃあいない。だけどそれは、あくまでも神が存在するという前提があっての話。貧しき者は幸いである……か。たしかに、貧しい者ほど天国に近いといわれれば慰めにはなる。死んでからでも報われると思えば心が休まる。兎の毛ほどだが希望になる。だけど、よくよく考えてみれば、神の教えは支配者にとってこそ好都合ではないか。と、膨大なヒマをもてあましていた檻の中で考えたことがあった。
 憎い相手の首を取らずに、あの世に持ち越せという教えで悪い奴の首がつながるんだからな。あるかないかもわからない、たぶんないであろうあの世。支配者たちはきっと、地獄も極楽もないということを知っているんだろう。“貧しいものほど天国に近い”とは見事なキャッチコピーだ。月の土地を売っているのと同んなじじゃあねぇか。天国への切符。天国の土地。天国のマンション。夏目雅子さんの隣空いてます、なーんてな。そいで天国へ金を持って行こうとあんころ餅に包んでゴクン。屍となって焼かれて隣人に奪われて、その隣人は“黄金餅屋”を開店。なるほど愛すべきだねえ、汝の隣人を。
 しかし、本当に切れるのか。煌めく白刃どころかどんよりと青黒い。厚みだってノコギリといい勝負だ。もしかすると金さんに担がれたのかもしれない。コレで殺せばお宮入りなどと、信じる方がどうかしている。じつは古道具屋で三百円。そんなオチかもしれん。秋も深まれば、ますます厚着になる。服の上から心臓まで刺さるのか?
 章雄は部屋の中を見回した。そして目の前のちゃぶ台にのっているペン立てから鉛筆を一本取った。短刀の先端部分で鉛筆の先をひと削り。すっと滑るように木の部分を削いで、そのままの角度で芯まで削った。――切れる! 
「あの声でトカゲ食うかや山ほととぎす。人は、いや人じゃないが、見かけに寄らぬもの」ひとりごちてニヤリとした章雄であった。お宮入りの話はともかくとして切れ味は本物である。寝刃を合わせて仕損なわないようにせねば。金さんの生暖かい息の感触が耳に蘇った。「やるときゃあ、これでやれ」

(つづく)
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「闇の道」(58)

2011/06/20 03:17
 章雄とケンが渋沢病院の正門をくぐったのは、十五夜に二夜足りない月夜であった。章雄は生涯で何度目かのスーツ姿、ネクタイまで締めている。ケンとて普段とは見違えるようなパリッとした格好。裏木戸から忍び込んで春彦によって落とし穴に落とされた、あの少年の日以来の来訪であった。
 患者がいない待合室でその絵と対面したとき、あっという声は出さねど、二人は同じ思いを抱いて顔を見合わせた。絵は花火をバックに描かれた、おさげ髪の少女。
 ――これは幸子じゃないか! 
 いいや、二人はちゃんとそれが章雄の母マリ子であると知っていたのだが……。
 そばにいたのは、渋沢春彦の兄である渋沢琢磨とその妻。
「大きいですけど、お持ちになれます?」妻がきいた。
「ええ、大丈夫です。私たちではなく宅配便を頼んでありますから。
専用の美術梱包で、ちゃんと保険もかけて」
 宅配便が到着するまで、二人は応接室にまねかれてコーヒーを出された。黒い革張りのゆったりとしたソファ。絨毯は幾何学模様の段通。壁に飾ってある十号ほどの絵。海と砂浜。一本だけの松の木。女がひとりぽつんと海に向かって座っている。やや俯瞰ぎみの構図。「あの絵はどなたの作品ですか」章雄が聞いた。
「ああ、あれは弟が描いたんです」
「ほう、弟さん……たしか国会議員になられた」
「そうです。若い頃盛んに描いてましてね。個展も何度かやりました。しばらく描かないでいたんですが最近また描くようになって。これはごく最近のです。本人には内緒ですが、昔よりだいぶヘタクソになった。ははは」
 章雄は立って行って絵の前に立った。あのT大の近くの酒場に飾ってあった春彦の絵を思い出した。変っていない。風景に対して異様に小さい人物。右の隅にHARUとサインが入っている。
「たしか異邦人というタイトルです。裏に書いてあると思います」後ろから琢磨の声がした。
「異邦人?」ケンが聞き返した。
「そうです。エトランゼ」
「なるほど」ケンが言った。
 そのケンの“なるほど”が実はチンプンカンプンの時の返事だということを章雄は知っていた。しかしまあ「久保田早紀かあ」などと言ってくれないでよかったと胸をなで下ろした章雄であった。
「そうですか。今度はぜひウチで個展をやっていただきたいなあ。じつをいうとずっと昔ですが、F郷のある店で春彦氏の絵を拝見したことがあるんですよ。良い絵だったので覚えています。店はなくなりましたが、あの絵はどうなったんでしょうね。随分大きかった印象がありますが」
 章雄がソファに戻った。コーヒーを口に運ぶ。
「あれならウチにありますよ」
「えっ」
「三階の春彦が使っていた部屋に。もう物置同然になっていますがね。昔描いた絵やら画材やらが置いてあります。……でも、良い絵ですかねぇ、あれ」
「良いというのは誤解を招く表現でした。私を引きつける何かがあったというのが正しい言い方でした」しかつめらしく言って章雄は横目でケンを盗み見た。ケンは笑いをこらえて下を向いた。
 宅配便の業者がやって来た。「春彦氏によろしくお伝えください。見に来ていただきたいが、議員さんともなるとお忙しいんでしょうねえ」長谷川展の招待状を渡しながら章雄が言った。
「ふふ、野党になっちゃいましたからね。ヒマそうですよ」琢磨の妻が言った。

「ウソも方便というが、俺には無理だなあ。嫌いなものを好きというのは無理」帰り道でケンが言った。
「お前はホント、ウソがつけないよなあ。それに今日はかなりビビってただろ」章雄がネクタイを緩めながら言った。
「それを言ってくれるな。なんたって裏から忍び込んで泥棒と間違われ、そのせいで旅に出たんだからな。あの頃は今日会った兄貴の方は家にいなかったからいいようなものの、たまたま春彦本人が遊びに来ていたらどうしようかと心配で心配で。頭のいい奴は物覚えがいいからきっと『昔どこかでお会いしませんでしたか』っていうだろうよ」
「それはない。お前には十代の頃の面影は微塵も残っていない」章雄はネクタイを首から抜き取りクルクルと丸めながら言った。
「そうか?」
「うん、完璧なジジィだ。俺もだが」

(つづく)
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「闇の道」(57)

2011/06/19 02:23
 “短世や大川端の人殺し”
 ブログ上で画廊主から長谷川トシノリ展への招待を受けた祥子がコメント欄で「例のふつつかな母と行きます」と謝礼の文言に加え、画廊主がブログで紹介した前記の荷風の俳句について「短世→短夜。返還ミス発券!」と冗談めかして付け加えると、
「変感ミスでは蟻ませんよ。今から四十年以上昔、私の親しい少女がS川の端で殺されました。夏の花火大会の夜です。十四歳でした。それで短世なのです」とコメントが返された。
 夕食の卓で祥子はそのことを母の凞子に話した。自宅で仕事をしていると他人との接触が極端に少ないから、祥子にとってはかなりのビッグニュースなのだった。
「四十年前というと永山事件の頃かなあ」凞子が興味深げに目を輝かせた。
「お母さん、まだ東京に出て来ていなかったよね」
「そうね。小学生だもんね。……でもさ、あんた、何で荷風の俳句なんか知ってんの?」
「知ってるわけないじゃん。荷風って人も知らないし。調べたの、ネットで」
「だよね。川端康成も三島由紀夫も知らないんだものね」
 正一は黙ってビールを飲みながらテレビを見ている。骨董品の鑑定をする番組だ。
「あれっ、モローって、凞子、お前が買ったのモローじゃなかった?」
正一が突然二人の方へ言葉を投げかけた。女二人は会話を止めて正一を見た。正一は顎でテレビの画面を指した。
「ほら、あれ、百五十万だって」
 画面には少女のブロンズ像が映っている。オーギュスト・モローの作品だ。
「モローたって何人もいるから。画家の方はギュスターヴ」凞子がぶっきらぼうに返答すると正一はまた黙ってテレビに目を戻した。
「ごちーっ」言って祥子が席を立った。食べ終わった食器を重ねて流しに運ぶと二階にある自室への階段を勢い良く上って行った。
 凞子も食事を終え、席を立ってコーヒーを入れていると、やっと正一が「ご飯くれる?」と言った。冷や奴も青椒肉絲もマカロニサラダもあらかたビールのつまみとして平らげてしまっていてテーブルにおかずは残っていない。いつものことだ。そういうときは卵かけご飯と決まっている。
 凞子は、ご飯と味噌汁をよそって、冷蔵庫から生卵を出して正一の前に置くと、自分はコーヒーを注いだカップを持って、再び卓についた。黙々と箸を動かす正一を、凞子の目は見ているが、さっきから心は別のことへ飛んでいた。コーヒーカップをせわしなく口へ運ぶ。
 凞子の頭の中に憤りが上げ潮のように満ちて来ていた。「モロー」という言葉から誘発されたS澤T彦という作家への憤懣。そして彼に象徴される、今にして思えばこの国に蔓延していた嘘っぱちの権威。それらにずっと騙されて来た自分への憤懣なのだった。
 凞子は二十代の頃、S澤やそのトモダチとして知られるM島の文学を愛していた。文学作品のみならずライフスタイルにも憧れを抱いた。モダンでスマートで都会的。知的な不道徳加減。西洋の幻想文化や芸術に造詣が深く、その世界は、田舎者で教養がない凞子の父親が愛した虎造などの浪花節とは対極に存在しているように、若い凞子には思えた。当時の若者の多くがそうであったように、日本的なものはダメで欧米的なものがカッコ良かったのである。
 S澤はある本にギュスターヴ・モローについて“聖セバスチャン”を最も多く描いている画家と書いていた。そしてその動機をマゾヒストだからというニュアンスで表現していた。ネットのない時代に一般人が、フランスの画家について知るには、例えばS澤のような作家が書いた本意外、いかにして知る事ができただろう。それが三十年後の今になって、“モロー”とサインのある猫の素描を手に入れた凞子が、本物かどうかインターネットを使ってあれこれ調べているうちに、若い頃に出会った権威が簡単に崩れ去ってしまうとは……。
 パリのモロー美術館は画家の家を改装したものだ。そこに六千点の作品が残っている。それらすべてを日本に居ながらにしてネットで見ることができるのだ。凞子は六千枚を一枚一枚、目を皿のようにしてチェックした。有名な作品の下絵や部分的なスケッチなど、それはそれは興味深く見ることができた。モローはゴッホと同じように日本の浮世絵に興味を持ったらしく、模写らしきものも何点かあった。猫の絵についてはどうも偽物らしいという結論に達したが、それよりも、S澤の書いていたことがことごとく想像でありこじつけであることを知ってショックを受けた凞子であった。聖セバスチャンの絵は何点もないのだ。
――何といい加減な!一般人はどうせ検証できないのだから何を書いてもよいという不遜な態度。有名な骨董の鑑定士が言っていた。「一つ偽物があったら、すべて偽物の可能性が高い」
ははんっ、これでM島扮する聖セバスチャンの写真についても納得がいく。サドの小説を翻訳したもんだから何でもかんでもサドとマゾに結びつけたかったのだろう。S澤とM島でSMか。こっちはモローの素描や下絵まで一枚一枚見たんだから。ああ口惜しい。若い頃好きだった分、うんと口惜しい。絵が偽物だったから、もっと口惜しい!だいたいS澤T彦なんて坊ちゃん坊ちゃんした名前が、ああ気に食わない。
 心の中でそこまで悪態をついて、待てよと思った凞子であった。S澤……そうだ、思い出した!間違いない! やっぱりあの男が渋沢春彦。三十余年前、あの店からの帰り道。木々が茂る暗い夜道で、若い方の男が「渋沢さんは〜」と名を口にした。その時『S澤T彦と関係あるんですか』と同僚の女性が聞いた。すると『大学の先輩だけど親戚じゃないよ』そう言った。確かにこの耳で聞いたのだ。

(つづく)
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「闇の道」(56)

2011/06/04 03:29
 章雄の部屋の窓から渋沢病院が見える。その街のどこからでも見える。こんもりと茂った緑の中に白いビル。まるで西洋の城のようであった建物はありふれた五階建のビルに建て変っていた。板塀はブロック塀に。章雄は渋沢病院を一度も訪れたことがない。子どもの頃から身体が丈夫で風邪も滅多にひかなかった。だから病院の表玄関を知らない。街から見える後ろ姿しか見たことがなかった。病院の先代院長とその妻は亡くなり、長男が後を継いでいることは知っていた。そのへんのことは大体が噂で耳に入ってきていた。ケンは今でも渋沢春彦を真犯人と疑っているのかは解らないが章雄が何も聞かずとも度々話題にした。今となってはケンが正しかったのだ。証拠はなかったが、ケンは何か感ずるものがあったのだろう。
 章雄は夕日に映える丘の上の森を眺めながら、ずっとずっと前に聞いた話を思い出していた。あそこに長谷やんの絵があるかもしれない。その絵のモデルは章雄の母親。
 章雄は早速、渋沢病院に電話した。驚いたことに、四十年前に鹿島から買ったその絵がロビーに飾ってあるという返事だった。展覧会のために借りたいと言うと二つ返事で承知してくれた。じつに軽やかに早口でしゃべる電話の相手は「院長の家内でございます」と言った。
 電話を切った。開け放した窓が絵画のフレームのようだった。
落日の丘、上空にたくさんのカラスが舞っている。CGのように動きが不自然だ。白壁がオレンジになったりパープルになったりする。いや、章雄の目のせいだ。黒い鳥だって本当はいない。ゴッホの麦畑とイメージが重なっただけだ。だって……カラスにしては随分とおかしな飛び方をする。森から湧き出ている。限りない数だ。ああ、ありゃあコウモリだ。何故、コウモリが見えるのだ。
 章雄は窓を離れ薄暗い部屋の畳に座り込んだ。視界が点滅していた。冷たい汗が腋の下をすーっと流れた。暑さの中、寒いほど今、孤独であった。孤独というのはそれを意識したときはじめて姿を現すのだ。これから人を殺そうというものに組するのは誰もいない。たとえ正義のためと言ったところで、いかなる神が味方してくれるだろう。天に響き渡る声。「そんなことをして何になる」「バカなことをするな」アイツに組している悪魔の声だ。アイツが今まで生き延びているということは、おそらく神など存在しないのだろう。まあ薄々感づいてはいたが。
 章雄の魂はこの世との訣別を決心した。今一番近しいのは、ケンでも小さな幸子でもなかった。あの男、渋沢春彦であった。

「窓を開ければ港が見える……か」外を眺めていた章雄が呟いた。
「メリケン波止場の灯が見える〜って、古いなあ」ケンが『別れのブルース』の一節を口ずさんで言った。
 二人は画廊の二階、章雄の部屋にいた。畳敷きの部屋で座卓を挟んで座る二人。開け放した窓から渋沢病院が見えている。長谷川展のために、あそこへ絵を借りに行く相談をしていたところだった。
「ん?……ああ、そういやあ同じだ。でもメリケン波止場じゃないさ、清水港(しみずみなと)だよ。忘れたかい、虎造だよ」章雄がケンに向き直った。
「窓をあければ港が見える、浴衣染めたい青い海〜」章雄が作り声のだみ声で唸った。
「おうおう虎造か。こりゃまた、おっそろしく古いのが出て来たなあ。いっつも腹をすかしていたガキの頃を思い出しちまうじゃねぇーか」
「うん。今さ、ふっと浮んで来た。こうやって窓を開けて眺めていたら。言われてみたら同じフレーズだ。『別れのブルース』の作詞家がパクったのかなあ。だって虎造の方が古い。……なんてことはどうでもいいが、なあケン、石松ってのはカッコいいよなあ」章雄がしみじみと言った。
「石松?ガッツ?」ケンは物怪顔だ。
「違うよ」
「えー、ハリスの旋風(かぜ)?」
「それは国松。さっき虎造って言ったのに。森の石松だよ」
「ああ」ケンの瞳がぱっと明るみ、
「馬鹿は死ななきゃ〜なおら〜ない」節をつけて唸ってから、
「懐かしいなあ。……それがどうした」
「カッコいいよな。俺たちのヒーローだったよな」章雄が念を押すように語気を強めた。
「いや、どうかな。今は時代遅れだと思うな。だいたい浪曲なんて今の若い奴らは知らないだろうし。しかし、薮から棒だな。石松の自画像でも出たのか」ケンはニヤニヤしながら首をひねりひねりしている。
「ふふ、自画像とは恐れ入った。森の石松は架空の人物だ。粗忽長屋じねぇーんだから」
「そうなのか架空の人物か。でも次郎長はいたんだろ。ガキの頃は次郎長も忠治もカッコいいと思ったさ。だけど、ヤクザってぇのはろくなモンじゃねぇって分かってから、醒めたな。そこで忍者に鞍替えしたんだよ、たしか。でも何で今ごろ」
「ちょいっと、思うことあって」章雄はまた窓の外へ目をやった。
「なーにを思わせぶりな。俺とお前は……えーと、這うか立つかのころからの付き合いで。えーと、生まれたときは別々でも死ぬときは別々。いや違う死ぬときは一緒。水くせぇぜ兄弟」ケンが浪曲の節回しでやっとのこと言うと二人は顔を見合わせた。ぷっと先に吹き出したのが章雄で、二人は腹を抱えてしばらく笑い続けた。
 おかげで章雄の“思うこと”はそのまま立ち消えてしまった。ケンは深く追求しなかった。ケンとてまさか生き死に関することであるとは夢にも思わなかったからだ。明日の夜に渋沢病院に行くことを決めてケンは帰って行った。

(つづく)
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「闇の道」(55)

2011/04/17 15:20
 美術評論家の宝井由美という人を章雄は知らない訳ではなかった。K社が出している美術雑誌の編集者からフリーの評論家になった人だ。編集者だった頃、十年ほど前になるが長谷やんのことで取材に来たことがあった。いわゆる教養があって品よく、生まれも育ちも章雄とは此岸と彼岸の違いありと見受けられた当時であった。歳は章雄と同じくらいか。
 白洲某という、やたらに観念的言葉を弄した文章を書く骨董収集家のおばはんじゃあないが、お嬢さん育ちはどうして長谷やんのような画家が好きなのか。このことについて意見を求めるとケンは「目黒の秋刀魚」だろと言った。民具も野仏も、彼らには「珍なるかな」というわけだ。三ヶ月風呂にに入っていない子どもがウヨウヨしている街に来て「可哀想」という感覚と同じ。本人たちは全く平気だというのに。宝井女史も長谷やんの絵そのものよりも「乞食同然の暮らし」に俄然興味津々というやつで、章雄がサービス精神から数々の存在しないエピソードを話してきかせると、それが汚濁にまみれ、悪臭紛々たるほど、若い頃はなかなかの美人だったと思われる黒目がちの瞳をキラキラさせたのだった。
 そんなこともあって、長谷やんの展覧会の案内状はずっと送り続けていたのだが、一年前から彼女もブログを初めていて章雄もたまに覗くことがあった。今年も展覧会の案内をコメント欄にでも書き込めば郵送の手間が省けると思ってアクセスしてみたのだったが。
 エニシの糸とはまったく恐ろしいものである。志ん生の「何ごとも縁でございまして」という一言が怪談話以上にぞくりと、ひかりごけの青光りさながらに蘇った章雄であった。
“渋沢先輩、当選おめでとう”
 最後の記事は選挙が終わった翌日の日付であった。
“このたび参議院議員に当選した渋沢春彦さんはA高校の美術部で一年先輩です。もう四十年以上も前になりますが、春彦さんはとっても美少年で他校の女子からも「王子」と呼ばれていたんですよ。
 そうそう、春彦さんといえば忘れられない思い出があります。高校二年生の夏休み、花火大会の日に女子中学生が自宅で殺されるという悲惨な事件がありました。手がかりが少なく捜査が難航していたときに、春彦さんが自宅のお部屋から天体望遠鏡で偶然、犯人が被害者宅から跳び出して来るのを見ていたというのです。彼のお家は小高い丘の上にある病院で、被害者宅はちょうどその真下だったのです。おかげで犯人は逮捕されました。犯人はたしか、唯一の目撃者といわれていた少年だったと記憶しています。
 O省に入られてからも趣味で絵を描いていらっしゃいましたが、最近はどうなのでしょう。今後は政治家として芸術の振興に力を入れてくれたら嬉しいですね”
 章雄はカッと頭に血が上るのを感じ、キーを何度も打ち間違えながら、宝井由美のプロフィールを検索した。宝井由美の旧姓は片瀬由美。A高校を卒業しM美術大学に進んでいた。長谷やんの展覧会に度々訪れていた彼女。ブログにある「唯一の目撃者にしてじつは犯人」こそ章雄であった。
――しかし嬉々としないこの心。なぜだ。
 心の片隅に、間違いであればよいと思う自分がいることを否めない章雄であった。が、もう間違いないのだ。四十年の歳月がカメラの絞りのように、この瞬間へと収斂しその者をとらえたのだ。この時のために、償いすら前払いしたのではないか。母に肩身の狭い思いをさせての五年間の囚われ暮らし。
――殺し屋よ、今さら何を躊躇う?

(つづく)
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「闇の道」(54)

2011/04/05 02:47
 パソコンなんてものは、けっ、人間が出来ないことをやる訳じゃなし、ただ効率を上げるだけだ。と、ずっと機械文明に背を向けて来た章雄であったが、インターネットというものには、もう只々「参りました」というしかないのだった。何がすごいかというと「出会い」である。例えば、こんな異常なことを考えているのは自分くらいのもんだろうと、卑屈、鬱屈、偏屈に凝り固まり世をすねていたような者でも、ネットの世界で「おーい」と呼べば大勢の者が集って来る。生まれ育った地域社会では異端でも、日本中、世界中をさがせば、同好の士は夥しい人数いるのだから、もはや孤独ではない。さらにネットは、これまで、どうせ底辺の人間だから、何を見られたって聞かれたって、どうせ発表する場を持たないんだからと相手に対してナメきった態度をとってきたエラい方々を脅かす。作家でも新聞記者でもない者が「媒体」を手にしてしまったのだ。あるいはジグソーパズルのように、ネット上に現れた言葉たちが組み合わされて一つの真実を浮かび上がらせることもあるだろう。一人が全貌を見ていなくても、ある者は鼻が長いと言い、ある者は耳が大きいという。そんな風にして大勢の証言が象の像を結ぶのだ。
 章雄が出会ったそのブログの主は若い女性であった。この人の母親というのが長谷やんの絵のファンであり、何ということか、三十数年前、あの本郷にあった「仏語で海」の店で働いていたというから驚きだった。現実の世界であれば「奇遇ですね」と目をまん丸くして手と手を握り合う場面であるか。ブログ主のハンドルネームがサチコというのもさらなる奇遇であった。
“母がボストン美術館展に行くという。まるでスーパーにでも行くような格好なので「ヒルズ行くのにそれはヤバいでしょ」というと「絵を見に行くんだから。見られに行くんじゃないから」だって。しかもスッピンだし。あーあ、歳はとりたくないものですっ”
 こんな調子で週に二三回更新されて行く。ブログには頻繁に母親が登場するのだが、この人が亡き母マリ子を彷彿とさせる。それでついつい章雄も、立寄ってしまうのだった。そんな風に、どうということもないありふれた日常を報告したブログであったが、次の記事を読んだ瞬間、章雄は心臓が縮むのを感じた。
“昨日、ボストン美術館展の感想を聞くと「たいしたことなかった。ちょっと偽物っぽいのもあったし」だって!何様のつもりなんだこの人!ネットオークションでモローの偽物つかまされたのはアンタでしょ。ふーっ。それからさらに「帰りに見た政治家のポスター、昔の知合いかも」というから「いつ頃の」と聞いたら「ほら、レイプしたことがあるっていった人」というから愕然。「人に言わないように。名誉毀損で訴えられるから」とキツく釘を刺しておきました。一年くらい前に書いたことですが、母は青森から東京に出て来たばかりの頃、T大近くの酒場で働いていて、そこの客の一人がそういうことを言ったらしいのです。その人はT大卒のエリートで、たまたま帰り道が一緒だったと言っていました。以来母の頭の中にエリートは変態が多いという偏見が出来てしまって、ことあるごとに聞かされました。おかげで私が付き合う相手はヤンキーばっかり。母とはすぐに意気投合する男子ばかりでした。てへっ”
 章雄は五回も読み返した。心に浮かんだポスターの政治家が誰であるかはいわずもがなであった。
 選挙が終わり「ついに国会議員か。驚いたな」とケンが言い、
「驚くことはない。いわゆるエリートコースってやつで、コース料理と同じ。官僚の後に来るのは…天下りにいたしましょうか、それとも貴族院?どちらも美味しゅうございますよ」などと軽口を叩いたのが数週間前。
 ――レイプだと……。章雄はサチコのブログの日付を遡った。その記事の日付は一年前の八月だった。
“今度は医師が患者に変態行為ですか。そういえば母がよく言っていました。エリートは変態が多いって。これはあくまでも母の偏見ですのでお間違いなきよう。若い時にバイトしていたお店の客に、T大卒で何とか省に勤めている人がいて、その人が「オレ、高校生の時レイプしたことあるんだ」とカミングアウトしたらしいです。いっつもハンチングをかぶって芸術家気取りの野郎(母の言い草)だったとも。この話、何度も聞かされて、こういう事件が起こるたびに思い出します”
 医者が未成年の女の子に何かして捕まった事件のことを書いている記事だった。
 ――高校生の時。まさか。いや、あのようなことをして軽々しく人に話すわけがない。悪ぶって言った作り話を真に受けたかな、このオバちゃん。それに、三十年前の客が渋沢春彦だという確証もない。三十年で人の外見は随分と変る。ハンチングに芸術家気取りか……。
 思えば、サチコのブログに章雄を導いたのは長谷やんの絵であった。
 ――これが因縁というものであろうか。本当にネットというものは恐ろしい。この三十年前の客だって、今のようにネットがあったらけっしてしゃべらなかっただろう。そして三十年後に世の中にネットというものが出現することを誰が予測出来ただろう。無防備に、「たかが小娘」相手に語られた話が闇の中へ消えてしまわずに煌めく液晶画面の俎上にのせられている。快哉ではある。
 そんな風にわざと評論家みたいな口調で自分に語りかけ、気持ちを鎮めようとするのだが、不穏な胸の高鳴りに抗いきれず、ついビールのアルミ缶を握りつぶした章雄であった。何かが押し寄せて来ている感じがした。ずっと解けないでいたパズルがふとしたひらめきで一気に解けるように。来るべき時がいよいよ来るのであろうか。人生のすべてを賭けて待っていたその時が。章雄は自問した。
 ――憎しみは生きているか?殺したいほどの憎しみは?……ああ、何を回りくどいことを。章雄よ、お前はその者を本当に殺すのか?

(つづく)
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「闇の道」(53)

2011/03/30 04:51
 200Z年、九月。凞子が三十年以上前の記憶を蘇らせるものに偶然出会ったのは、六本木ヒルズで“B美術館展”を見た帰りのことであった。美術展は小品ばかりでちょっと期待はずれ、モネの睡蓮もあったが上野の国立美術館の大作とは比べ物にならない。ルノアールだったかが「アンタの絵を買ったが本物か見てほしい」といわれ、偽物だったけれども、あまりに高い値段で買ったその者を気の毒に思い「本物だ」と答えたエピソードを思い出し、あの中の何点かは偽物かもしれない……。などと車中、不遜な感想を抱きながら住まいのある中央線のT駅に降り立った凞子であった。
 家から駅までは自転車に乗って来ていた。凞子は駅を出ると駅前の駐輪場に向かった。金網で囲まれた駐輪場の隣は民家で、その家のフェンスの前を通りかかった凞子は急に歩みを止めた。フェンスには政治家のポスターが貼ってあった。ベニヤ板に貼付けて針金で止めてある。選挙用ではない。政権交代があった歴史的選挙は先月に終わったばかりだった。顔写真にキャッチフレーズ。支持者が自分の家の窓などに貼っているありふれたものだ。凞子は「あっ」という表情のままでじっとポスターの人物に見入った。
 ――似ている。この目……。
 ズボンのポケットでゴジラのテーマ曲が鳴った。娘の祥子から電話だった。別に用がある訳ではなかった。所在確認。「今駅だから、もうすぐ帰るよ」と返事して、ポスターの前を去り自転車を取りに駐輪場の奥へと歩みを進めた。
 自転車を押して駐輪場から出ると、再び例のポスターの前に立ち止まった。――そういえば、こんな名前だった気がしないでもない。
 誰に似ているかといえば、三十数年前、T大近くの酒場でアルバイトをしていたときの客。あの「レイプしたことがある」と言った男にイメージが重なるのだった。三十年という歳月は人の外見をすっかり変えてしまう。凞子自身について言えば、十八だった娘が今や五十を過ぎているのだ。あの男は当時二十代後半だったか。ということはもう六十前後か。ポスターの男もそのくらいだ。渋沢はるひこ、G党参議院議員。ウエーブのかかった髪、生え際がかなり後退して広くなった額。薄い唇とそして黒ぶち眼鏡の奥の三白眼。この三白眼こそが凞子を立ち止まらせたものなのだった。それほどに強い特徴のある目であった。――政治家か。T大を卒業してO省に入ったのだから考えられないことはないか。
 凞子は自転車にまたがってペダルを漕いだ。すでに夕方だったが日はまだ高い。あの夜道――。若い方の男が「○○さん」と名前を呼んでいたのだ。何と呼んでいたか……。凞子の思いは完全に三十数年前のあの夜に戻っていた。心ここにあらず、前方不注意ながらも、慣れた道ゆえに車にも人にもぶつからず、猫の子も轢かずに何とか家に辿り着いた。
 家に帰り着くと気もそぞろに夕食の仕度をした。会社員の夫が帰宅し、在宅でウェブデザイナーをしている娘の祥子が部屋からダイニングにやってきて、三人で食事をした。
「どうだった?」美術展のことを祥子がきいた。
「たいしたことなかったよ。やっぱりヨーロッパにはかなわないんだろうね。全部持って来てないと思うけど」
「ふーん。そういえばお母さん、もうすぐ長谷川トシノリの個展があるんだよ」
「ほんと!どこで?」
「K区のゲットーっていう画廊。長谷川トシノリの絵、その画廊がほとんど持っているらしいよ。ネットで調べていたらね、画廊の人のブログに行き当たって、お母さんが長谷川トシノリのファンなので個展のことを教えてあげますってコメントしたらさ、アタシのブログにも遊びに来てくれたの」
「ふーん、画商ねえ。骨董屋とか画商とか、まあ堅気の商売じゃないからねぇ。変なもの売りつけられないように用心してよ。……おっさん?」
「プロフィールだともうお爺さん。熊谷守一も持っているらしいよ」
「ふーん、趣味が合うじゃん。絶対行こうっと」
 夫の正一は二人の会話に加わらずテレビに見入っている。お笑い芸人がひな壇に並んでいる番組だ。時々一人笑いをしている。
――あの酒場で働いていた頃は、正一とはまだ出会っていなかった。
 そう考えているうちに、脳の中で時系列で並んでいるはずの記憶が列を乱しはじめ、ずっと過去の、すでにぼんやりとして消えつつあったものが前面に跳び出して来るような、奇妙な感じがして来る凞子なのであった。

(つづく)
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「闇の道」(52)

2011/03/06 03:16
 ――とにかく若い奴だった。
 ともすると、真犯人はすでに生きてはいないのではと思ってしまうとき、そう自分に言い聞かせて気持ちを奮い立たせる章雄であった。
 この数十年、似たような事件が起る度に章雄は関連した記事を読み、事件の詳細を知ろうとつとめた。犯人が逮捕されると、その人間についても詳しく調べて来た。性犯罪者は犯行を繰り返し、逮捕されるまで止めないとよくいわれているからだ。大久保某、小野某、宮崎某、そして未解決の少女殺人事件の数々。不思議なことに、どの事件も幸子の事件とはどこか違っていた。たった一度の犯行なのだろうか。そんなことがあるのか。当時どんなに若くても、生きていたとしたら今は中年から老年に差し掛かっているはずだった。最近、東北の方で起った事件は、犯人の男は小学生の時に殺人を犯し、その後は普通に結婚し普通の生活を送っていたという。それが中年になってまたタガが外れたのだろうか、家族を殺害して自らも命を断った。そんなこともあるのだなあと思わされた事件であった。
 思春期の下着泥棒などは、大人になって現実の女を知ることによって終わるという。幸子のことが好きで好きでたまらなく思っていた男が欲望をコントロールできずに、今で言うストーカーになってしまったのかもしれない。そのようなタイプの男は、その後どんな人生を歩むのか。また別の対象に同じことをするのか。それとも下着泥と同じく成長とともに普通の恋愛が出来るようになって終わるのか。……しかし、犯した罪の重さは下着泥とは違う。罪悪感という地獄の業火に苦しめられて生きているのか。粗暴な性的異常者ゆえ、社会的にも真っ当な職業に就けず、こそ泥や空き巣を繰り返し、ムショに出たり入ったりの人生を送っているのか。
 血液型はB型。テレピン油がある環境。どういう方法で家に入ったのか靴の足跡はつけていない。真夏で窓が開いていたというから、そこから入ったのだろう。靴を脱いでか?……それはない。あの時、玄関から跳び出して来て走り去った後ろ姿は裸足には見えなかった。現場のどこにも靴は残っていなかったし……。そこいらへんで章雄の思考はいつもストップする。だいたいが酒を飲みながらか、布団に入ってからであるから、そこらへんで酔いが回るかあるいはウトウトし始めるからだ。
 そして、何度そいつに夢の中で出会っただろう。例えばこんな夢だ。薄暗いアトリエに入るとロウソクが灯っている。キャンバスにむかって絵を描く男。章雄はその男が真犯人だと知って、そこにやって来たのだ。ウエーブが掛かった髪。大きな20号ほどのキャンバスに夢中で筆を走らせている後ろ姿。黒っぽい長いローブを着ている。百年も前の服装だ。章雄は近づく。手にはガーバー社のナイフを強く握っている。相手は気がつかない。ゆらめく炎の加減で描きかけの絵が見えた。アッと思う章雄。ギュスターヴ・モロー。良く知っている『妖精とグリフォン』ではないか。章雄は後ずさった。あたりを見回せば、そこは三階の自分のアトリエ。男がゆっくりと振向いた。よく見えない。ウエーブの掛かった前髪が顔に垂れている。そして暗い。「誰だ」章雄は叫び、自らのその声で目覚めた。
 昼間ケンとモローの画集を見ながら話をしたからそんな夢を見たことはあきらかだった。『妖精とグリフォン』の妖精は美しい裸の女だ。モローの特徴である「ナ」の字のポーズで座っている。それを見てケンが言った。「こんな女に誘惑されたら絶対に逆らえない。もうメロメロだな。催眠術にかかったみたいに付いて行ってしまいそうだ」そして両手を前に出してキョンシーのような仕草をしてみせた。
「何とかいう詩人だか作家だかは、夜中に忍び込んでロウソクの光りで見たいというほどお気に入りだったらしい。俺はあまり好きじゃないが」
 章雄は過剰な絵が苦手であった。モローや、それから若沖やレオナール・F田も。ちょっと気味悪く思えるのだった。F田の線は巧みだ。うっとりするような面相筆のラインだ。その輪郭線の中をなぜ油彩でこれまた繊細なタッチで彩色するのだろう。現実には存在しない輪郭線はただ象徴化のためにだけ使って欲しい。過剰さが鑑賞を拒絶する。絵ではなく描かれた女を見ろという。これがちょっと恐いのだった。
 あるいはよく見るのが追いかける夢だった。夜の道、黒い影をひたすら追いかけるのだが距離が縮まらない。「人殺しだ、捕まえてくれー」と叫ぶが、すれ違う者たちは皆ピカソのキュビズムの顔でニヤニヤしているだけだ。
 草むらの中で格闘する夢もよく見た。おそらく川へ降りる土手の草むらだろう。章雄はナイフを振り上げ振り下ろしメッタ刺しにした。刺しても刺しても手応えがない。疲れて気づくとそれはカカシやボロ布団に早変わりしているのだった。
 あんな夢こんな夢、フロイドによれば夢は願望充足というがまったくなのであった。そして犯人が現れるシーンは決まって夜。闇に包まれているのだ。
――こっちがこれほどまでに思っているわけだが、向こうは俺をどう思っているのだろう。俺がもしそいつなら、かわりに捕まった男のことがきっと気になる。未成年で新聞に名前は出なかったが町の連中はみんな知っていた。名前くらい調べてくれているのだろうか。
 また夏が来て、幸子の命日がやってくる。命日と言っても章雄は葬儀にも出ていない。墓参りだって行ったことがない。だって章雄の中では幸子は死んでいないのだから。毎年の花火大会は堪えられない。長谷やんの命日が九月だったので、章雄たちは毎年その日に展覧会を開くことにしていた。準備の忙しさで花火大会を素通りしようという章雄の思惑であった。
 ケンは家族がいるから夏はそっちの方で忙しかった。過去は過去として、花火大会は孫たちとともに楽しんだ。去年の夏、たまたま目にした小さい幸子の浴衣姿……章雄は不覚にも目を潤ませてしまった。“永遠の幸子”は自分で縫ったという浴衣を、ついに着ることなく逝ってしまったのだ。
 花火大会が近づいたある日、ケンが画廊に来る早々に言った。
「知ってるか、アイツ、選挙に立候補したの」
「誰が?」
「あの丘の上の坊ちゃんさ」ケンはアゴで渋沢病院をさした。
「へぇ、政治家か。官僚だったんならG党か」
「そうだ。駅前で演説してた」
 もうすぐ衆議院の総選挙があるのだ。
「また五月蝿くなるなあ。貧民に選挙権がなかった頃はこのあたりには選挙カーが来なかったんだろうなあ」章雄が言った。
「そうそう、江戸時代の貧民は税金納めなくて良かったらしいし」
「江戸時代は選挙なんかないよ」
「そっか」
 章雄もケンも政治には無関心で選挙に行ったことすらなかった。
「しかし歳を取るって恐ろしいなあ。どんな美少年も爺になっちまうんだから。渋沢春彦もだいぶメタボだったぜ」
「まあ俺たちも似たようなものだ」
「そりゃあそうだが」二人は互いをジロジロ見合った。
「いや、アキは若いよ。腹も全然出てないし。それに何でだかしらないが昔より小ぎれいになった。風呂にも入っているみたいだし、臭くない。若い頃にもっとちゃんとしていたら人生変わっていただろうな。……そういえば緑ちゃん、アキにフラれたって言ってたぞ。何で今さらモテるんだよ、あの子、二十歳だぞ」
 章雄はニヤリとした。夏はいつもTシャツだ。それにハーフパンツ。さすがにゴム草履でなく雪駄であるが。そして風に彷徨う洗濯物ではなく買ったものであった。まあ新品ではないが。
「走っているんだよ。あしたのジョーみたいに。あの橋を渡ってずーっと。……しっかし、美術系ってどうしてオカシイのばっかりなんだろうなあ。あの娘は美人だがかなりの変人だ。だから俺なんかのところに来るのさ。何たって長谷やんの血を引いているしな」
 緑は美大生だ。長谷やんの息子の娘なのだ。長谷やんの息子とは章雄たちは長いつきあいだった。大学を出てサラリーマンになったが、その娘、つまり孫の緑が画家を志したのだった。ゲットーで個展を開いたこともあった。 
「アンタとは血がつながっているかもしれないから、そういう関係にはなれないって、言ったらしいな」
「だって長谷やんは俺の親父かもしれないわけだから」
「ふーん。どうだろうなあ。似てるとも似てないとも、なんともなあ。まあ、志ん生が高峰秀子の父親だっていう話とどっこいどっこいかな。でもあの子の絵はアキ、好きだろ?」
「ああ、絵はいいよ、最高だ。酒もドラッグもやっていないのにバスキアだもの」
「ハハハ、それをいうならウチの幸子は天才だ。バスキア以上のぶっ飛んだ絵を描くから」

(つづく)
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「闇の道」(51)

2011/03/02 15:04
 200Y年。池袋にあった章雄たちの画廊は、二人が生まれ育った、かつての「錆色の街」に移った。場所は金さんの本屋、章雄の実家があった土地だ。そこに画廊兼章雄の住まいを建てたのだった。
「ゲットーって名前、大丈夫なの? 桜組の兄ちゃんたちが因縁付けてくるかもよ」聡子がいうと、
「因縁もなにも、ゲットーは誇るべき言葉だろ。ここはオイラたちの地元、アイツらこそよそ者だ、なあ」とケンが章雄に同意を求めれば、
「大丈夫。アイツらゲットーの意味わかってないから」と答えた章雄であった。
 池袋に居た時と同じく章雄の住居は二階だった。前と違って二間に台所。エアコンもある。前時代的なのは二部屋とも畳敷きだということだ。テーブルは座卓で、寝るのも布団を敷いて寝る。座卓は食卓になったりデスクになったりした。デスクになると上にはノートパソコンがのっかる。おんなこどももすなるブログというものを我もしてみんとて…なのであった。
 一階はギャラリーで二階が章雄の住まい。そして三階は倉庫でありアトリエであった。そうなのだ。章雄は絵を描いていた。もう二十年も描き続けている。もともと絵を描いたり何か作ったりするのが嫌いではなかった。短かった学校生活、褒められた覚えがあるのは体育と図工。少年院での作業でかなり手先が器用であることも証明された。
 章雄には長谷やんの絵は別として、もう一人惚れ込んでいる画家があった。熊谷守一だ。章雄にいわせるとこの人は、落語でいうなら志ん生の域に達しているのだった。
 ケンに話すと「ああ、似てるなあ。志ん生が言ってたなあ。歩いて帰って来れないところには行っちゃあいけないって。クマガイモリガズは最後の三十年間は家の敷地から出なかったっていうから、確かに似てる」と妙な同意の仕方なのだった。
 二人は同じ頃に生まれて、亡くなったのも七十年代と同時代を生きている。晩年のクマガイモリカズの絵は、晩年の志ん生に通ずるものがあると章雄は思うのだった。じつに適当に描いているようでいて、猫なら猫、兎なら兎が「なるほど生きている」のだから、参ってしまうのだった。
 ケンの娘たちが年頃だった頃、子は否応なく親に似るのであるから至極当然なのであるが、色々と遊びたい盛りで家に帰って来ない時期があった。ケンは人並みにそれが心配でたまらないらしかった。親になって初めて知る親の心というわけだ。章雄が「自分のことを棚にあげて」とからかったら「男なら平気だが娘だからな」と言ってからこう付け加えた。
「不思議なもんさ。きょうだい二人いると、目の前にいる子より居ない子のことをずっと考えているんだ。まるで遠くにいる恋人のことを思うみたいに。だから、例えば二人兄弟で兄貴がぐれて家出したりするだろ。すると親は、そのろくでもない兄貴の方をずっと深く思い続けるんだ。つうことは、真面目に家の後を継ごうとか親の面倒を見ようとか思ってそばにいる弟の方はずいぶん損な役回りだと思わないか?」
「そりゃあ、そうだろうなあ」と答えて章雄は、幸子のことを片時も忘れることが出来ないでいる自分に気づいたのだった。
 そこで前述の、志ん生の、物忘れかな?と思わせる長い間(ま)も、クマガイモリカズの線で区切ったベタ塗りの平面も、「無い」ことによって存在感を感じさせるのだなあと思い当たるのであった。その無い物がいったい何なのかは分からない。鑑賞する者ひとりびとり違うのであろう。そういう風に、どちらも気持ちが吸い込まれていく不思議さがあるのだ。芸を極めれば人の心のありようの秘密が分かるのであろうか。心にぽっかりと穴があくというが、穴は空(くう)でありながら「無い」という「存在」なのだ。まさしく「無い」ことで永遠の存在となった、章雄にとっての幸子。心に空いた穴の何と強烈な存在感であるか。
 錆色の街で唯一の喫茶店は、当時のマスターの息子があとを継いで健在であった。マスターも八十歳くらいで元気でいるという。ゲットーの三階の窓からは丘の上の渋沢病院がよく見えた。周囲の板塀はコンクリートのブロック塀に変った。錆色の街へ出る裏口は鉄の扉に変っている。例の思い出深い橋も鉄骨とコンクリートになった。あの夜に駆け下りた土手の草むらはなく、人工的な石畳の斜面となって、これまたがっしりとしたコンクリートの橋桁の下まで続いていた。
 三階のアトリエでテレピン油の匂いを嗅ぐとき章雄の記憶はいつもあの夜の、幸子の家から跳び出して来た男の脚にしがみついた場面に帰っていった。何度リプレーしただろう。何千回何万回。テレピン油の匂い以外に何か思い出せることはないか。イーゼルに立てたキャンバスの前方には、かつて幸子の部屋に飾ってあった絵が掛けてある。長谷やんが幸子をモデルに描いた絵だ。幸子の両親から譲り受けてそこにある。彼らとて章雄が犯人だとは思っていなかった。真犯人に恨みの言葉を投げつけることもなく数年前に他界した。
 

(つづく)
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「闇の道」(50)

2011/02/26 03:39
 十年ひと昔というけれど、三十歳を過ぎてからの十年はあっという間だ。人生の後半の三十年なんて、そのアッという間が三たび、アッアッアッという間に経ってしまう。それに比べて生まれてからの三十年は、それはそれは長い。長くなくてどうしよう。中原中也や佐伯祐三にとってはそれが人生のすべてではないか。いやいや、村山槐多や関根正三の一生にいたっては二十年そこそこ。幸子という幸薄かった乙女は僅か十五年が一生だったのだ。彼ら彼女らはおそらく、自分の命の丈を知っていたに違いない。脳や意識ではなく肉体が細胞が知っていたに違いない。なぜなら、彼ら詩人の言葉や色彩と筆遣いで語られた詩は、何か特別の光を放っているからだ。事物を美しいと感じるのは、それがいずれ失われることを無意識レベルで知っているからかもしれない。諸行無常。それが幽玄の美であるのか、世阿弥よ。差し迫ったこの世の事物や現象との別れ。見るもの皆、輝いて見えるに決まっている。木の葉の葉脈は血管のように脈打ち、鳥の声はどんな歌手の歌よりも詩的で、逆に、デザインされた商品やビルは醜さを際立たせゴミと瓦礫に見えるのだ。
 章雄も四十二歳の厄年に肺炎にかかって死にかけた。その時やたらにいろんなものが強烈に迫って来た。見るもの聞くものがビビッドなのだ。戦争もそんな感じだとよく聞かされる。だから幸子はあのように……。と、六十年の生涯のうち幸子がいた時期は短いが、後の時間がまるで薄ぼんやりしているのに比べあまりに鮮明に記憶に残っている章雄であった。
 200X年。そんな風にして章雄は、まだ生きていた。長谷やんよりも二十年も長く生きていることになる。相変わらず結婚もせず一人であった。母親のマリ子はとうにこの世になかった。義理の父親である金さんも。
 爽やかな初夏の昼下がり。ハンバーガーショップで待つ久子のもとに、章雄と小さな幸子が手をつないで入って来た。小さな幸子……彼女は久子の娘、つまりケンの孫娘だった。幸子という名をもらったのは結局、章雄の娘ではなく、この愛くるしい瞳の、少しばかりこましゃくれた当年五歳の女児だった。家族がない章雄は、ケンの家族と身内同然の付き合いをしてきたのであったが、章雄はこの幸子をことのほか可愛がった。それは幸子という名前のせいだけではなかった。小さな幸子は雰囲気もどこかあの“永遠なる幸子”に似ていたのだ。
 幸子がスヌーピーの赤いリュックサックを背負ったまま椅子に腰掛けようとして、リュックが背もたれにひっかかった。章雄はごく自然な手つきで幸子の傾いた身体を支えた。その仕草が二人の親密さを表していた。幸子はリュックを下ろし、椅子の背もたれに掛けるとあらためて椅子に腰掛けた。母親の向かいである。
「何食べる?」後ろに立ったままの章雄が聞いた。
「アップルパイとイチゴシェイクッ」幸子が元気よく即答した。
「ハンバーガーは食べないの?」久子が訊ねた。
「映画館でポップコーン食べたからオナカすいてない」
 章雄が注文しに店のカウンターに立って行った。午後の二時すぎ。店はガランとしている。
「お母さん、あのね、あーちゃん、泣いたんだよ、変なの」幸子がテーブルに身を乗り出して言った。あーちゃんとは章雄のことだ。
「あらまあ、可哀想な映画だったのね」久子が言った。彼女の前にはコーヒーの紙コップが載ったトレーがある。食事は済んでいた。
「うん。バックビークがね、殺されそうになるの。すごく可哀想だった」
「幸子も泣いちゃった?」
「ううん。本を読んでもらって、助かること知っていたから大丈夫だったよ。あのねぇ、あーちゃんが泣いたの、そこんとこじゃないのよ」言って幸子が後ろを振り返り章雄に目を向けた。章雄はカウンターで店員と話している。
「ふーん。どんなところで泣いたの?」久子が興味津々という顔で目を輝かした。幸子は前を向き直った。
「あのね、逆転時計を使って時間をもとにもどすの。そうして殺されそうになっているバックビークを助けるのよ。そこのところで泣いたの。……ああノド渇いた」幸子がまた、注文カウンターの方を見遣った。章雄はサイフからお金を出しながら店員と話していた。
 やがてトレーを二つ持った章雄が席に帰って来た。トレーの一つを幸子の前に置いた。シェイクとアップルパイ。
「ありがとう」言って幸子が紙おしぼりで手を拭いた。章雄は幸子の隣に腰を下ろした。
「あーちゃんが泣いたこと、ママにバラしちゃったよ」幸子がイタズラっぽく笑った。
「気がついてたのか」章雄のトレーにはハンバーガーとコーラとポテトがある。
「こうやってね、ハンカチで……」幸子が紙おしぼりをハンカチに見立てて鼻を啜り上げて泣きマネをしてみせた。
「ははは、上手いなあ。あれは嬉しくて泣いたんだよ。助かって良かったって。歳を取るとすぐに泣いちゃうんだなあ」
 その日二人は映画『ハリーポッターとアズカバンの囚人』を観たのだった。逆転時計は時間を過去へ戻すことができる魔法グッズであった。
「あはは、お父さんも言ってた。悲しいことには慣れているから滅多なことでは泣かないけれど、嬉しいことはあんまりなかったからすぐ泣いてしまうって。ほんと、二人とも不幸自慢スゴいよね。段々オーバーになっていくから半分はネタだと思うけど。……ポテトちょうだい」久子が章雄のポテトを一本つまんで口に入れた。
「お母さん、お行儀悪い」幸子が言った。
「どうして」
「いいよって言ってないのに食べた」
「いいに決まってるもの」
「あーちゃん。幸子もいい?」
「どうぞ」
 キラキラと煌めくシアワセ。幸子を殺した犯人が見つかっていたら、こんな時は過せていない。ことあるごとに章雄はそんな風に思う。だけど、いつかは……。その先についてはケンとも話さなくなって久しい。ケンが夢にまで見、そして築き上げた普通の家庭に、不吉な話題を持ち込みたくはなかった。章雄にとっては「その時」が来たら確実に終わるシアワセ。だからこそ、これほどまでに眩いのだと章雄には解っていた。

(つづく)
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「闇の道」(49)

2011/02/20 21:33
 思春期は麻疹のようなものだ。とはよくいわれることだ。作家M島にいわせれば熱病らしい。そのMがあのような最期を遂げてから五年。Mが闘って討ち死にした対手が、我が内にも住まっていることを春彦は少年期から感じており、ゆえにMの書くものには並々ならぬ共感を覚えて来たのだった。それはときに美意識となって現れ、時には政治思想となって出現する。
 その生涯の対手ともなり得る怪物と、春彦の方は十八のとき講和条約を結んだのだった。キツネやムジナに取り憑かれた者が、そのキツネやムジナを逆に味方に取り込むように。うまくやったさ。と、春彦はキツネのように、あの時ほくそ笑んだ。
 メドゥサを退治するためには鏡で己の姿を見せればいい。春彦は鏡となって、母親に己の醜さを見せてやったのだ。母親が恐怖の悲鳴を上げると、取り憑いていたキツネやムジナも一緒に落ちた。何という、昨今流行りのエクソシスト顔負けの悪魔払い。春彦は苦行僧が悟りを得たように、暗雲晴れて光を見た。サナギから蝶になったときはいかにもこんな風であろうと、春彦はそのとき自分がすっかりオトナになったことを感じたのだった。
 思春期の奇妙な感情と行動は、今にして思えばすべては性ホルモンのせいだったのだと春彦は分析していた。急激な性ホルモンの分泌に肉体がパニクっていたのだ。大人になるというのはそれに身体が慣れることをいうのだ。すなわち人間は変るのだ。何故にあんなことをしたのか?本当に思春期というのは恐ろしい。命のやりとりなど屁とも思わない。暴走族だった者たちも、仲間が事故って死んで初めてリアリティを得たと語っている。そうなのだ。思春期は自分の行為でありながら、夢の中の出来事のように現実感に欠けているのだ。
 では、春彦は今、あのことに罪悪感を覚えているかといえばそれはまったくなかった。逆に不良だった者が大人になってから語る武勇伝のごときものであった。時々、しゃべりたくてウズウズする。大学も職場もみなエリート揃い。若い頃のちょっとしたヤンチャを偉そうに語る輩を見ると、自分のやったことのスゴさを思い周囲を鼻で笑わないではいられない。花火の頃ともなると記憶が蘇り、たまらない絶頂感に襲われた。唯一、真相を知っていた母親も死んだ。もう誰にも後ろめたさを感じることはなかった。十八歳で完全犯罪を成し遂げた自分が神と肩を並べる存在にさえ思えた。というのも、彼は幼い時からずっと苦しんで来たという自覚があった。外目には幸福そうに見えた丘の上の城がじつは魔性の物の住処だったと誰が知ろう。魔性の物とは母親である。すべての不幸は母親が原因なのだ。だから春彦は戦いを挑み彼女を滅ぼした。魔性の物を倒すには悪魔的なものの力が必要だった。それこそが我が内なる怪物だったのだ。怪物は生け贄を求めた。あの世にも美しい乙女。その他にも犠牲は捧げられた。そして魔性の物はついにいなくなった。葬儀のとき春彦はとても清々しい気持ちであった。まるで悪を倒した正義のヒーローだった。神は許している。それどころか、よくぞ頑張ったと祝福してくれている気がした。
 それからは、神の側についた。二十五歳の時、教会で結婚式を挙げた。荘厳なる十字架の前で永遠の愛を誓った。今、彼には可愛い盛りの二人の娘がいる。経済的にも恵まれ、社会的立場も揺るぎない、油彩が趣味。母親で苦労した分、美人ではないが貞節で地味で知性的な妻を得た。彼は本気で、温かい家庭を作ろうとしていた。
――私はいわゆる性的異常者とは違う。妻とはごく普通の性生活を営んでいるし、二度とあんなことはしないと断言できる。あの幸子の、今際の際の表情は身悶えするほどの甘美さで、今も私を夢心地にする。その一方で、私のかけがえのない娘たちに何かしようとする者がいたら絶対に許さないだろう。幸子の両親も同じ気持ちに違いない。不思議なもので、幸子の親たちの気持ちになれたのも自分が親になったからであって、犯されて殺される娘の恐怖というものにはどうにも感情移入ができない。それは、親にはなれても女にはなれないからだろうか。殺されるときの恐怖など想像しようとしても無理だ。私の想像力はどうしても自分を殺す側に置いてしまうのだから。

(つづく)
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「闇の道」(48)

2011/02/18 11:41
 ケンの住まいは、池袋駅から建設途中の東洋一の高層ビルの方へ徒歩二十分くらい行ったところにあるモルタル二階建てのアパートの二階の角部屋だ。六畳と四畳半に二畳ほどの台所。家賃は一万六千円。妻の聡子はケンより二つ年下で北海道の出身だ。中学を卒業して集団就職で東京の工場に勤めたが寮生活が嫌で新宿の喫茶店で働くようになった。客として行ったケンと章雄が声を掛けて誘い出し、ケンと付き合うようになったのだった。
 家に帰り着いたとき、まだ九時前だったが娘の久子はすでに床についていた。
「今日はやけに蒸すね。アキちゃん帰ったの?」
 聡子のオナカはまだ目立たない。予定日は十二月だった。
「うん。なあ聞いてくれよ。今日さ、びっくりすることがあったんだ」ケンが服を脱ぎながら言った。短パンに上半身は裸。首に汗吹き用のタオルをひっさげるとちゃぶ台の前に座った。そばで真新しい扇風機が首を振っている。開け放した窓にはスダレが下がっていた。外で遠雷のようにオートバイの爆音がしている。
「何?びっくりって」聡子がビールを注いだ。
「あーうめぇ。ビール飲んで来たんだけど、家で飲むのが一番だなあ。……今日さ、帰りに寄った店でア・イ・ツに、会ったんだよ」
「アイツ?」聡子が目を輝かせた。
「誰だと思う?」
「うーん、誰かなあ。有名人?」
「まあな。オレたちの間では」
「M田童子かな。でもアイツってことは男か。えーと、T川かずき、O林信康……」
「何でそんな連中ばっかりなの?そんなんじゃねえーよ。渋沢春彦」
「えーっ」タレントとばかり思っていた聡子は驚くと同時に少し眉をひそめた。
 ケンは聡子にすべてを話してあった。はじめて話したとき、聡子は章雄にヒドく同情した。絶対に真犯人を捕まえて無実を証明しなきゃだめだ。と、興奮した。そしてこのことは結婚してからも度々話題になった。ケンは一日の出来事を聡子に話すのが習慣になっていた。まるで小学生が母親に話すように「なあ聞いてくれよ、今日さあ」と始めるのだった。会社に勤めているわけではないので、登場人物はいつも章雄だった。つまり、ケンは章雄の言動のすべてを聡子に話して聞かせていたのだった。いつも聡子はニコニコしながら相槌を打った。二人にとってそれは「家庭」や「シアワセ」を感じられるひとときであった。この日も店でのことから電車内でのことまですべて話して聞かせた。ところが今日に限って、話しているうちに聡子の表情に影が射していることにケンは気づいた。
「どうした? 暗いじゃん」
「アキちゃん、犯人が解ったらホントに殺すつもりなのかなあ」聡子はすっかり沈み込んでいる。
「うーん。アキならやりそうだ。いまさら警察に言っても解決した事件だからどうにもならないって言ってたし」
 言いながらケンもヒドい蒸し暑さにもかかわらず、何やら背中がぞっとするような感じを覚えていた。
「もしも、もしもよ、犯人が解ってアキちゃんが復讐のためにそいつを殺そうとしたらケンちゃんはどうするの?手伝う?止める?」
「えっ。オレは……わかんねぇ。そんときになってから考えるさ」
 聡子は相変わらず暗い顔でケンから目をそらしジッと扇風機を見つめていた。少しの沈黙のあと、
「犯人、永久に見つからなきゃいい」ぼそっと言ってから早口で続けた。「子どもがいないときは、真犯人を見つけて八つ裂きにしてやりたいって本気で思っていたけど、今は、ケンちゃんやアキちゃんに人殺しになって欲しくない、絶対に。だから永久に犯人が見つからない方がいい。もう死んじゃっているか、別の事件で刑務所の中ならいいのに。犯人は憎たらしいしアキちゃんのことを考えると口惜しいけど、今の生活がメチャクチャになるなんて絶対イヤ。理由がどうであれ、子どもたちにとって父親が人殺しって堪えられないわ私……」聡子は段々と涙声になった。そして仕舞いにはオイオイと泣き出してしまった。妊娠中で少し情緒が不安定気味の妻をケンは、
「わかったわかった、約束する。もしものときはオレ絶対にヤバいことしないし、アキを止める。だから心配するな。オレだってアキに言ったんだ。そんなことしたらオフクロさんが悲しむって」となだめた。
 幸子が殺された直後、あるいは章雄が捕まっていた頃はたしかにケンにとっては復讐が現実のものであった。それが、聡子に今、あらためて“殺す”というリアルを突きつけられて怖じ気づいている自分がいた。犯人への憎しみは変ることがない。だがもうあの血の気が多い十代には戻れない、いや戻りたくない。ケンには今の生活が宝物であった。高度成長で錆色の故郷も白っぽいコンクリートの町並みに変貌した。出来ることなら思い出したくない、なかったことにしたい子ども時代とともにあった町。その町に章雄がいて幸子がいた。そんな風に思っている自分が、何だか章雄を裏切っているようで悲しいケンであった。――汚れっちまった悲しみって、こんな感じなんかなあ。
 泣き止んだ聡子が震える声で言った。
「アキちゃん、もしものときのために、女の人と付き合わないのかもね」
「そんな……」
「いや、きっとそう。前から思ってたんだ。女の人に興味ないのかなって。三人ではじめて遊んだときも、私とケンちゃんを二人きりにしようとしたし。その理由がね、幸子って子のことが引っ掛かっていて女の人と深い関係になれないのかなって思っていたの。でも今、本当は違って、自分が犯罪者になることを想定して生きているからだって気がする。それに、ほら……久子の名前だって」
「ああ……」
 久子が生まれたとき章雄は「幸子って名前にしろよ」と言った。ケンが「その名前はお前に娘が出来た時まで取って置くさ」と答えた。すると章雄は「俺、結婚なんて一生しないから」とこともなげに言ったのだった。

(つづく)
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